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読書日記と哲学がメインです (不定期更新)

読書日記2184

 

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日記

社労士試験が終わった。

試験会場を出たとき、達成感があったのか、悔しさがあったのか、安堵していたのか、自分でもよく分からなかった。何か月もかけて積み上げてきたものが、その日の数時間のなかで一気に放出されてしまったような感覚だけが残っていた。朝早く起きて過去問を解き、通勤中にカードを見返し、帰宅してからまた曖昧な論点を潰す。法律の条文、数字、期限、主体、原則と例外を延々と頭の中に入れ続けてきた日々が、その日の試験終了の合図とともに突然止まった。

試験が終われば解放されると思っていた。しかし、実際に終わってみると、解放というより、急に大きな空白ができたような感じがした。

そのまま帰るのも妙だったので、ルソーの『社会契約論』を読みながら帰った。

試験の直後に読む本として『社会契約論』が適切なのかどうかは分からない。もっと軽い本を読めばよかったのかもしれない。しかし、なぜかその日はルソーを読みたかった。試験勉強のあいだ、私は法律というものをひたすら「制度」として覚えてきた。労働基準法、労災保険法、雇用保険法、健康保険法、厚生年金保険法、国民年金法。法律はすでに存在しているものとしてそこにあり、その制度の仕組みを理解し、要件を覚え、問題文を読んで正誤を判定することが求められる。

しかしルソーは、そのさらに前に戻る。

なぜ人は法律に従うのか。

なぜ国家は正当なのか。

なぜ多数の人間が一つの共同体を構成できるのか。

そんな、普段なら当たり前として通り過ぎてしまうところまで戻って考える。

百ページほど読んだ。

読みながら、ルソーという人は根が真面目なのだと思った。

もちろん、思想史的にはいくらでも複雑な評価があるだろう。ルソーには矛盾もあるし、後世に与えた影響についてもさまざまな議論がある。しかし、少なくとも『社会契約論』を読んでいると、「なぜそうなのか」という問いを途中で放棄しない人だという感じがする。

われわれは社会に暮らしている。法律に従う。税金を払う。投票する。仕事をする。誰かから物を買う。誰かにサービスを提供する。

普通に生活していれば、こうしたことを一つ一つ根本から問い直したりはしない。

なぜ働くのか。

なぜ貨幣を受け取るのか。

なぜ他人の作ったものを買うのか。

なぜ自分の時間を誰かのために使うのか。

そんなことを毎朝考えていたら、会社に遅刻してしまう。

だが、社労士試験が終わり、ルソーを読みながら帰っていると、不意にその問いが残った。

そもそも、私は何のために働くのだろうか。

「生活のため」という答えはある。

それは間違いではない。

働かなければ賃金を得られない。賃金を得なければ、家賃も払えないし、食事もできない。現代社会において、労働が生活手段であることは明白である。

しかし、それだけでもない。

「自己実現のため」という言い方もある。

それも一部では正しいだろう。しかし、すべての労働が自己実現になるわけではない。むしろ自己実現という言葉は、労働に過剰な意味を負わせすぎる危険もある。

そこで昔からよくある言葉が出てくる。

「人のために働く」。

私はこの言葉にどこか警戒心を持っている。

美しすぎるからである。

「人のため」という言葉ほど、簡単に道徳化される言葉もない。人のために尽くしなさい。社会のために働きなさい。誰かの役に立ちなさい。

そう言われると、労働のなかに存在する賃金格差や権力関係、不合理な命令や搾取まで、「人のため」という美辞麗句によって覆い隠されてしまうことがある。

だから私は、「人のために働く」という言葉を簡単には信用したくない。

しかし、完全に捨てることもできない。

帰り道、何気なく飲み物を飲んだ。

普段であれば何も考えずに飲む。

しかし、その日は妙にその飲み物が気になった。

この一本の飲料は、誰かが作ったものである。

原料を作った人がいる。

容器を作った人がいる。

工場で製造した人がいる。

製造設備を整備した人がいる。

品質管理をした人がいる。

物流センターへ運んだ人がいる。

店舗まで配送した人がいる。

棚に並べた人がいる。

レジのシステムを作った人がいる。

決済インフラを維持している人がいる。

私はただ数百円を払って飲んでいるだけだが、その背後には膨大な数の労働が折り畳まれている。

フルグラもそうである。

カロリーメイトもそうである。

電車もそうである。

スマートフォンもそうである。

本もそうである。

ルソーの『社会契約論』そのものだって、ルソー一人が書いたというだけでは私の手元には届かない。翻訳者がいる。編集者がいる。校正者がいる。印刷する人がいる。紙を作る人がいる。本を運ぶ人がいる。本屋で働く人がいる。

私は他人の労働なしには、一日たりとも現在の生活を維持できない。

考えてみれば、これは途方もないことである。

私は自給自足していない。

食料を作れない。

家を建てられない。

服を作れない。

薬を作れない。

電気を作れない。

水道を維持できない。

にもかかわらず生活できている。

なぜならば、他人がそれらをやってくれているからである。

そして私もまた、自分のできる何かを社会に返している。

持ちつ持たれつ。

あまりにも当たり前の言葉だが、社会の本質のかなりの部分は、この言葉で説明できるのかもしれない。

人は他人のために働き、その代わりに他人の労働によって生かされている。

そう考えると、「人のために働く」という言葉は単なる道徳ではない。

分業社会の構造そのものである。

誰かの役に立とうという高尚な決意がなくても、労働は誰かの生活の一部になる。

私が仕事をする。

その成果を誰かが使う。

その誰かがまた別の仕事をする。

それをまた別の誰かが使う。

われわれは、他人の労働を受け取り、自分の労働を返しながら生きている。

この循環だけを見れば、非常に美しい。

しかし、そこで私は市場の失敗という言葉を思い出した。

経済学では、市場に任せておけば必ずしも社会全体にとって望ましい結果になるとは限らないことを「市場の失敗」と呼ぶ。

外部性。

公共財。

情報の非対称性。

独占。

共有資源の乱用。

私は経済学者ではないから、これらを精密に理論化することはできない。

しかし、一つの素朴な疑問が残った。

人が人のために働いているのなら、なぜ市場は失敗するのか。

これはかなり奇妙な問いである。

農家は食料を作る。

医師は患者を治療する。

工場は製品を作る。

物流会社は物を運ぶ。

販売員は商品を売る。

技術者は便利なシステムを作る。

それぞれの仕事は、多かれ少なかれ誰かの役に立っている。

にもかかわらず、それらが集合した市場が、社会にとって望ましくない結果を生み出すことがある。

ここで大事なのは、市場の失敗は必ずしも「悪人がいる」という話ではないということである。

公害を出す工場で働く人が、周辺住民を苦しめたいと思っているわけではない。

車を運転する人が、渋滞を発生させたいと思っているわけではない。

漁師が海から魚を消滅させたいと思っているわけではない。

医師が抗菌薬耐性菌を増やしたいと思っているわけでもない。

一人一人は、ごく普通の目的で行動している。

それでも、全体として望ましくない結果が生じる。

ここに私は妙な恐ろしさを感じる。

人間の悪意によって社会が壊れるなら、まだ話は単純である。

悪人を止めればよい。

違法行為を取り締まればよい。

しかし、一人一人が普通に生活し、普通に働き、普通に商品を買い、普通に車に乗り、普通に便利なサービスを利用しているだけなのに、その集合が環境を破壊したり、資源を枯渇させたり、社会に巨大な負担を残したりする。

これは倫理だけでは処理できない問題である。

「善良な人間になりなさい」と言っても解決しない。

ここで、私はルソーのことをまた思い出した。

ルソーは、個々人の意志を単純に足し合わせたものと、共同体全体に関わる一般意志を区別する。

もちろん、この概念をそのまま市場経済に当てはめるのは乱暴だろう。

しかし、感覚として似ている。

個人にとって合理的な行為を全部足し合わせれば、社会全体にとって合理的になるとは限らない。

私が車に乗る。

一人なら問題にならない。

しかし全員が車に乗れば渋滞する。

私が魚を獲る。

一人なら問題にならない。

しかし全員が限界まで魚を獲れば、魚がいなくなる。

私は安い商品を買う。

一人なら合理的である。

しかし、その安さの裏側で環境負荷や低賃金労働のコストが誰かに押しつけられている可能性がある。

個人の合理性と社会の合理性は一致しない。

人のために働くことと、人間社会全体にとって良い結果を生み出すことも一致しない。

ここで「人のため」という言葉は、急に難しくなる。

たとえば、ある企業が大量の商品を生産しているとする。

その商品は人々の生活を便利にする。

多くの労働者がそこで働き、賃金を得る。

消費者もその商品を喜んで買う。

企業も利益を得る。

一見すると全員が利益を得ている。

しかし、製造過程で大量の二酸化炭素が排出されているかもしれない。

大量の水を消費しているかもしれない。

森林が伐採されているかもしれない。

大量の包装材が廃棄されているかもしれない。

使用後の商品が何十年、何百年も分解されないゴミになるかもしれない。

すると「人のために働く」という言葉は、現在目の前にいる人だけを意味してよいのかという問いが出てくる。

未来の人間はどうするのか。

遠い国に住む人はどうするのか。

まだ生まれていない人はどうするのか。

人間以外の生物はどうするのか。

川はどうするのか。

森はどうするのか。

海はどうするのか。

ここまで考えると、「人のため」という言葉そのものが、思った以上に狭い言葉なのではないかと思えてくる。

今日、私が飲んだドリンクにも、フルグラにも、カロリーメイトにも、資源が使われている。

水。

穀物。

石油。

金属。

電気。

紙。

プラスチック。

私は商品を買うとき、完成した商品だけを見ている。

しかし、本当はその商品が生まれるまでに、地球のどこかから何かが取り出されている。

そして使い終わったあと、何かが地球のどこかへ戻される。

ゴミとして。

排水として。

排気として。

二酸化炭素として。

市場では、商品に値段が付いている。

百円。

二百円。

千円。

しかし、その価格のなかに、採掘された資源の将来的な希少性はどこまで含まれているのだろう。

ゴミ処理の費用はどこまで含まれているのだろう。

生態系への影響はどこまで含まれているのだろう。

未来世代が負担する環境コストはどこまで含まれているのだろう。

市場価格とは何なのだろう。

私は経済学者ではない。

しかし、商品棚に並んでいる価格が、その商品の「本当の費用」を完全に表しているわけではないということくらいは分かる。

もし百円の商品を作るために、別の場所で百円以上の損害が発生していて、その費用を商品を買う私ではなく誰か別の人が負担しているのだとしたら、その商品は本当に百円なのだろうか。

この問いは、かなり怖い。

市場は、見えるものに値段を付けるのが得意である。

しかし、見えないものに値段を付けるのは難しい。

きれいな空気。

安定した気候。

豊かな海。

土壌。

生物多様性。

将来世代の生活可能性。

こうしたものは、日常生活ではほとんど無料に見える。

だからこそ、使いすぎる。

汚してしまう。

失われてから初めて価値に気づく。

空気を一本百円で買っているなら、人はもう少し慎重に空気を扱うかもしれない。

しかし空気は無料である。

海も無料に見える。

川も無料に見える。

地球の吸収能力も無料に見える。

その「無料」が、実は巨大な錯覚なのかもしれない。

考えているうちに、レイチェル・カーソンを読みたくなった。

『沈黙の春』である。

農薬は、もともと人間のために作られた。

害虫を減らす。

農作物を守る。

生産量を上げる。

食料を安定供給する。

それ自体は「人のため」の技術である。

しかし、農薬は使用した場所にだけ留まらない。

水へ流れる。

土壌へ残る。

昆虫に影響する。

鳥に影響する。

魚に影響する。

食物連鎖を通して別の生物へ移る。

人間が「便利な技術」として使ったものが、生態系全体へ広がっていく。

ここには、市場の失敗という言葉だけでは捉えきれない何かがある気がする。

経済学なら外部性と呼ぶだろう。

しかし、「外部性」という言葉はあまりに簡潔である。

一つの言葉で処理すると、かえって現実の重みが消えてしまうこともある。

鳥がいなくなる。

川から魚が減る。

土壌に化学物質が残る。

人間の身体にも蓄積される。

そうした具体的な連鎖として見ることで、初めて「外部性」という言葉の意味が身体感覚として分かるのではないか。

私はこれまで環境問題について、それなりに知っているつもりでいた。

気候変動。

資源枯渇。

プラスチックごみ。

森林破壊。

大気汚染。

言葉だけなら知っている。

しかし、本当に考えたことがあるかと聞かれると怪しい。

ニュースで見る。

学校で習う。

企業の環境方針を読む。

分別してゴミを出す。

それくらいである。

ところが「何のために働くのか」という問いから始めると、環境問題は突然、労働の問題になる。

私が働く。

誰かが商品を作る。

誰かが商品を運ぶ。

誰かが商品を買う。

そのすべての過程で資源が動く。

つまり労働とは、人間同士のサービス交換であるだけでなく、自然界から物質やエネルギーを取り出し、それを変形し、移動させ、最後にどこかへ戻す活動でもある。

考えてみれば当然である。

経済活動は地球の外側で行われているわけではない。

あらゆる労働は、どこかで物質世界と接触している。

パソコンだけで仕事をしているように見えても、パソコンには金属が使われている。

データセンターは電力を消費している。

電力を作るために資源が使われる。

クラウドと呼ばれるものも、本当に雲のなかにあるわけではない。

巨大な建物とサーバーと電力網の上に存在している。

「人のために働く」という言葉を本気で考えるなら、その「人」を支えている自然環境まで考えなければならない。

人間は自然から切り離されて存在していないからである。

ここまで来ると、ルソーからカーソンへの道筋が自分の中で少し見えてくる。

ルソーは、人間同士の社会契約を考える。

人間が互いに依存しながら、どうすれば自由でいられるのか。

どうすれば個人の利益だけではなく、共同体全体に関わるものを考えられるのか。

しかし現代に生きる私は、そこにさらに問いを付け加えたくなる。

社会契約の当事者は、人間だけなのか。

もちろん、川や鳥や森が契約書に署名するわけではない。

未来世代も現在の政治的意思決定に参加できない。

だからこそ問題なのである。

声を持たないものの利益は、誰が代表するのか。

市場に参加できない存在の価値を、どのように考えるのか。

未来の人間は現在の商品を買わない。

だから現在の市場価格には、未来世代の意見が反映されない。

鳥も商品を買わない。

森も投票しない。

海も訴訟を起こさない。

それでも、それらが破壊されれば最終的に人間の生活も壊れる。

私は今日まで、社労士試験のために「社会」というものを制度の側から見てきた。

労働者。

使用者。

被保険者。

保険者。

事業主。

行政機関。

法律上の主体がいて、権利と義務がある。

誰が届け出るのか。

誰が負担するのか。

誰が給付を受けるのか。

法律は主体を明確にする。

しかし環境問題では、主体が曖昧になる。

誰の空気なのか。

誰の海なのか。

誰の地球なのか。

現在生きている人間だけのものなのか。

こうした問いになると、法律だけでも市場だけでも解けない。

哲学が必要になる。

経済学が必要になる。

政治学も必要になる。

自然科学も必要になる。

そして、おそらく文学も必要なのだと思う。

数字だけでは感じられないことがある。

気温が何度上がる。

海面が何センチ上がる。

何トンのプラスチックが流出する。

統計は重要である。

しかし、鳥の声が消えた春を想像することは、数字とは別の認識を与える。

だからレイチェル・カーソンを読む。

これは単に環境問題について勉強するということではない。

今日残ってしまった「何のために働くのか」という問いを、もう少し遠くまで追いかけるためである。

私は誰かのために働いている。

誰かも私のために働いている。

その事実は疑い得ない。

今日飲んだ飲み物も、食べたものも、乗った電車も、読んだ本も、無数の人間の労働によって可能になっている。

だから「持ちつ持たれつ」という感覚は、私は捨てたくない。

むしろ大切にしたい。

しかし、それだけでは足りない。

持ちつ持たれつの輪の外側に、費用を押しつけていないか。

われわれが便利になることで、別の誰かが不利益を負っていないか。

現在のわれわれが豊かになることで、未来の人間の選択肢を奪っていないか。

人間同士が助け合いながら、その外側にある自然を一方的に消費していないか。

そう考えると、「人のために働く」という言葉は、むしろ出発点なのだと思う。

そこで思考を止めてはいけない。

人のために働く。

では、その労働は本当に人のためになっているのか。

目の前の人だけではなく、遠くの人にも。

現在の人だけではなく、未来の人にも。

そして、人間が生存するために不可欠な自然環境にも。

社労士試験が終わった日に、私はこういうことを考えるとは思っていなかった。

試験が終わったら、しばらく何も考えたくなくなるのではないかと思っていた。

しかし実際には逆だった。

制度を覚え続けてきたからこそ、制度の外側が気になった。

法律を覚え続けてきたからこそ、「そもそも社会とは何なのか」という問いに戻りたくなった。

そこでルソーを読んだ。

そしてルソーを読んだことで、「何のために働くのか」という問いが出てきた。

その問いから市場の失敗へ進み、さらに環境、資源、ゴミの問題へ進んだ。

次はレイチェル・カーソンを読む。

今日の読書は、一冊の本を読み終えるための読書ではなかった。

一つの問いが別の問いを呼び、その問いがまた次の本を呼ぶ読書だった。

試験勉強では、問いには正解がある。

正しい肢がある。

誤った肢がある。

しかし読書では、正解した瞬間に終わる問いよりも、答えたあとにさらに大きくなる問いの方が面白い。

社労士試験を終えた今日、私の中には一つの問いが残った。

何のために働くのか。

いまのところ、私はこう答えたい。

人は、互いに生きるために働いている。

しかし、その「互い」の範囲をどこまで広げられるかによって、労働の意味はまったく変わる。

目の前の他者までなのか。

社会全体までなのか。

未来世代までなのか。

自然までなのか。

ルソーが人間同士の契約を一から問い直したように、私はこれから「働く」というあまりにも当たり前の行為を、もう一度一から考えてみたい。

私たちは、本当はいったい誰のために働いているのだろうか。