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読書日記と哲学がメインです (不定期更新)

読書日記2153

 

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日記

アントワーヌ・コンパニョンという名前を見ると、まず身構える。私にとってコンパニョンとは、気軽に開いて気軽に閉じるような作家ではない。文学理論、批評、近代、反近代、引用、読者、テクスト、そうした言葉がどこかで絡まり合い、読もうとすればこちらの集中力を根こそぎ要求してくるような書き手である。難解な本ばかり書いている、という言い方は乱暴かもしれないが、少なくとも、平日の夜に疲れた頭でページをめくり、「なるほど、今日もよい一日だった」と素直に眠れるタイプの本ではない。こちらもそれなりに構えなければならない。椅子に座る。机を整える。辞書的なものを横に置く。引用に足を取られる覚悟をする。分からなさを通過する覚悟をする。そういう読みの姿勢を要求してくる名前である。

そのコンパニョンが『文学は割に合う!』という本を書いている。いや、正確には、そういうタイトルの本が日本語で出ている。これだけで、私はまず少しうんざりした。文学は割に合う。なんというタイトルだろうか。文学に対して「割に合う」という言葉を与えるだけで、もう何かが取り逃がされているように思える。文学とは、割に合うかどうかで測れないものではなかったのか。効率、回収、投資、成果、コスパ、タイパ、そういう言葉の外側で、むしろそれらの言葉では説明できない領域に踏み込むために文学はあるのではなかったのか。もしこれが、私の知らない作家の本であったなら、おそらく私は書店で背表紙を見た瞬間に、「文学を割に合うとか割に合わないとか、そういう経済的な視点から語ってしまう時点で、もう文学に対して根本的に失礼なのではないか」と内心で突っ込み、手にも取らずに書店を出ていっただろう。

しかし、困ったことに、それを書いているのがコンパニョンなのである。あのコンパニョンが、こんなタイトルの本を書くのか。あるいは、そう訳されるような本を書くのか。ここに、少しだけこちらの警戒心が緩む。いや、もしかすると、これは単なる啓蒙書ではないのかもしれない。むしろ「割に合う」という言葉をあえて前面に出しながら、文学を経済的価値の言葉に回収しようとする時代そのものをずらしているのかもしれない。コンパニョンなら、そのくらいのことはやるだろう。タイトルだけで腹を立てて帰るには、相手が悪い。知らない作家なら退店で済むが、コンパニョンとなると、こちらもそう簡単には逃げられない。あの人がこんなことを言うなら、少しは読んでみるか、という気持ちになってしまう。これが読書の厄介なところである。内容より前に、書き手の履歴がこちらの態度を変えてしまう。タイトルに反発しているのに、著者名に引き留められる。読む前から、すでに私は一度負けている。

だが、ここでさらに皮肉なことが起きる。私は今日、その本をほとんど読めない。なぜなら社労士試験の勉強があるからである。文学は割に合うのか。分からない。少なくとも今日の私にとって、文学を読む時間は試験勉強の時間と競合している。労働基準法、労災保険法、雇用保険法、健康保険法、厚生年金保険法、国民年金法。数字、期限、主語、届出、保険者、被保険者、受給権者。私はいま、文学の「割に合わなさ」を擁護したい気持ちを持ちながら、皮肉にも、人生の実利にかなり直結する資格試験のために、文学を読む時間を削っている。これは笑えないほどよくできた冗談である。文学は割に合うのか、などと問う前に、文学を読む時間そのものが、試験勉強とのあいだで割に合うかどうかを測られてしまっている。

もちろん、これは単純な対立ではない。社労士試験の勉強もまた、社会を読む訓練である。制度を読む。条文を読む。例外を読む。行政の合理性を読む。労働者と使用者のあいだに置かれた力の非対称性を読む。社会保険という巨大な仕組みが、人間の生老病死をどのように処理しようとしているのかを読む。そこには、ある種の文学的なものすらある。人間が生きるうえで避けられない疲労、病気、失業、老い、死亡、遺族、障害。そうした現実を、制度はどのような言葉で包み、どのような条件で支給し、どのような期限で届出させ、どのような例外で救済し、どのような不備で切り捨てるのか。これはこれで、かなり人間的な読解である。条文を読むことは、社会の冷たい文体を読むことである。だから、文学と試験勉強がまったく別物だとは思わない。

しかし、それでも今日の私は、コンパニョンの本を十分に読めない。読みたい本がある。だが読めない。読みたい理由もある。だが読めない。タイトルに文句を言いたい。だが文句を言うほど読めていない。これほど読書日記にふさわしい状態もない。読んだ本について書くのではなく、読めなかった本について書く。しかも、その読めなさが、生活の現実と試験の圧力によって生じている。文学は割に合うか、という問いが、文学を読む時間は割に合うか、という問いに変形され、さらに、文学を読めない生活とは何か、という問いに変わっていく。私はおそらく明日以降、この本について改めて語ることになるだろう。今日はまだ入口である。入口に立ちながら、入口の看板に腹を立て、しかしその看板を書いた人物の名前に足を止め、結局中に入る時間がない。これが今日の読書である。

話は一気に変わる。変わるが、実はそれほど変わらない。私はコインランドリーを使った。そこで、どうにも落ち着かない気持ちになった。コインランドリーという場所は、あまりにも当たり前のように街に存在している。白い照明、並んだドラム式洗濯機、乾燥機の丸い窓、硬貨または電子決済、残り時間を示す数字、回転する衣類。そこには清潔さがある。便利さがある。生活の必要がある。雨の日に洗濯物を乾かしたい人もいる。大物を洗いたい人もいる。洗濯機が壊れた人もいる。家に洗濯機を置けない事情のある人もいる。そういう人たちにとって、コインランドリーはたしかに必要なインフラである。そのことは分かっている。分かったうえで、私はやはり問わざるを得なかった。これは誰のための、何のシステムなのか。

ドラム式の洗濯機が回っている。洗濯という行為を機械が代行している。人間は洗濯物を入れ、金を払い、ボタンを押す。そこまでは分かる。問題はそのあとである。洗濯機が回っているあいだ、人間は何をしているのか。多くの場合、スマホを見ている。椅子に座り、あるいは壁にもたれ、画面を眺め、指を滑らせ、何かを見ているようで、ほとんど何も見ていない。動画、通知、短い文章、広告、ニュース、SNS、どうでもいい争い、どうでもいい近況、どうでもいいおすすめ。洗濯機は回る。衣類は洗われる。人間の時間も回る。だが、人間の時間は洗われない。むしろ汚れていく。集中力が削られ、注意が細切れになり、身体はそこにあるのに、意識はどこにもない。

ここに、私は奇妙な転倒を見る。人間はお金を払って、洗濯という行為を機械にやらせる。つまり、生活の一部を外部化する。その結果として時間が浮くはずである。家事労働の負担が減り、余白が生まれるはずである。ならば、その余白で何をするのか。読書をする。考えごとをする。散歩をする。手帳を開く。眠る。ぼんやりするにしても、きちんとぼんやりする。そういう可能性があるはずである。ところが現実には、その浮いた時間がスマホに吸い取られる。洗濯を機械に任せることで得たはずの自由時間を、今度は別の機械に差し出している。これは自由なのか。便利なのか。進歩なのか。人間は洗濯から解放されたのではなく、洗濯機とスマホのあいだに挟まれているだけではないのか。

コインランドリーの人間は、ただ待っている。待つという行為そのものは、本来かなり豊かなものである。待つ時間には、思考が生まれる。待つ時間には、退屈が生まれる。退屈は悪いものではない。むしろ退屈は、人間が自分の内側に戻るための通路である。何もしない時間があるから、何かを考えてしまう。何も起きないから、自分の感覚に気づく。沈黙があるから、言葉が生まれる。文学は、おそらくそういう待つ時間と深く関係している。列車を待つ。手紙を待つ。返事を待つ。雨がやむのを待つ。誰かが来るのを待つ。人生が変わるのを待つ。待つことは、文学の母体のひとつである。

だが、現代の待ち時間はほとんどスマホに占領されている。人間は待てなくなったのではない。待たされていることに耐えられなくなったのでもない。待つ時間が生まれた瞬間に、それを埋める装置が手元にある。だから待つことが発生しない。空白が発生しない。退屈が発生しない。思考が発生しない。人間は、洗濯機の前に座っているのに、洗濯機の前にいない。自分の衣類が回転しているのに、その回転を見ていない。自分の生活の一部が目の前で処理されているのに、その生活について考えていない。ただ画面を見ている。これは小さな場面である。しかし、この小さな場面に、現代の大きな構造がほとんど全部入っているように思えた。

もちろん、洗濯という作業を軽く見るつもりはない。洗濯は面倒である。衣類は溜まる。乾かない。臭う。畳むのも面倒である。生活は、こういう反復でできている。だからこそ、人間は機械を作ってきた。洗濯機はすばらしい発明である。手洗いの苦労を考えれば、洗濯機がどれほど多くの人の時間と体力を救ってきたかは疑いようがない。問題は、洗濯機そのものではない。問題は、機械によって生まれたはずの余白を、人間がどう使っているのかである。機械が生活を楽にする。そこまではよい。だが、楽になった生活の空白に、別の消費装置が入り込む。すると、便利さは自由を生むのではなく、別の支配を生む。

ここで私は、少し極端なことを考えてしまう。一人暮らしの人間がコインランドリーに行くとは何なのか。もちろん、事情はある。洗濯機が置けない部屋もある。乾燥機が必要な日もある。ベランダがない部屋もある。防犯上、外に干しにくい人もいる。体調や時間の問題もある。だから、誰か個人を責めたいわけではない。個人の怠惰として片づけたいわけでもない。むしろ、個人がそうせざるを得ないように組まれている生活環境のほうを見たいのである。近くに大学があるためか、私の家の周辺にはコインランドリーがあちこちにある。学生が来る。洗濯機のない部屋に住んでいるのかもしれない。ベランダのない部屋に住んでいるのかもしれない。狭い部屋に、最低限の生活設備だけを押し込められ、洗濯という生活の基本行為すら外部の有料システムに委ねる。そういう住環境が普通のものとして供給されている。

ここに、私は日本の賃貸の貧しさを見る。ベランダすらない。洗濯機置き場すら十分ではない。日当たりも悪い。部屋は狭い。収納も少ない。にもかかわらず、家賃は安いとは限らない。生活を営むための空間というより、ただ人間を収納するための箱に近い。人間はそこに寝る。起きる。外へ出る。働く。学ぶ。帰る。洗濯は外で済ませる。食事はコンビニで済ませる。娯楽はスマホで済ませる。読書はできればする。できなければしない。こうして、生活の各部分が細かく外部サービスに分解されていく。住まいは生活の中心ではなく、課金サービスを利用するための仮置き場になる。

コインランドリーは、その象徴である。そこでは、洗濯というきわめて生活的な行為が、貨幣を介した短時間のサービスになる。衣類を洗うことは、本来なら身体の延長にある行為である。汚れた衣類は、昨日までの自分の生活の痕跡である。汗、匂い、食べこぼし、雨、埃、外気。洗濯とは、それらを洗い落とす行為であり、生活を次の日へ渡すための小さな儀式でもある。だが、コインランドリーでは、それが機械の中に投入され、数字で管理され、終了音とともに返却される。もちろん便利である。だが、その便利さのなかで、人間は自分の生活の手触りを少しずつ失っているのではないか。

私はここで、風呂のお湯でささっと洗えばいいではないか、と思ってしまう。これはかなり乱暴な感想である。すべての衣類がそれで済むわけではない。量もある。乾燥の問題もある。衛生の問題もある。時間の問題もある。だから、これを一般論として主張するつもりはない。ただ、そう思ってしまうところに、私の生活感覚が出ている。洗濯とは、そんなに大げさな外部システムに預けなければならないものなのか。日々の衣類を洗う程度なら、自分の手と水と少しの洗剤で済ませることもできるのではないか。そう考えるとき、私は単に節約を語っているのではない。生活の主導権をどこまで手放すのか、ということを考えている。

生活の主導権は、小さなところから失われる。最初は洗濯である。次に食事である。次に移動である。次に情報である。次に思考である。自分で洗わない。自分で作らない。自分で歩かない。自分で探さない。自分で考えない。もちろん、すべてを自分でやることはできない。社会とは分業であり、文明とは他者の労働に支えられることである。だから、外部化そのものが悪いわけではない。問題は、何を外部化し、何を自分の手元に残すのかを考えないまま、便利さに流されることである。便利さは、考えずに受け入れると、自由ではなく依存になる。しかもその依存は、とても滑らかで、清潔で、明るく、合理的な顔をしている。

コインランドリーの明るさが、私は少し怖かった。あの場所には、悲惨さがない。むしろ快適そうである。新しい機械、清潔な床、分かりやすい操作画面、待合の椅子、監視カメラ、防犯表示、キャッシュレス対応。すべてが整っている。だからこそ怖い。終わっているものは、必ずしも暗くて汚い顔をして現れるわけではない。むしろ、終わりは便利で清潔な顔をして現れる。人間が少しずつ自分の生活を手放しているにもかかわらず、それが進歩や快適さの名で受け入れられていく。洗濯機が回り、スマホが光り、人間は座っている。そこには暴力も強制もない。誰も命令していない。だからこそ、余計に根深い。

この風景を見ながら、私は文学のことを考える。文学とは、こういう場面に問いを立てるものではないのか。コインランドリーを見て、ただ便利だと思うのではなく、ただ学生が多いと思うのでもなく、ただ家に洗濯機がない人が使う場所だと思うのでもなく、そこで人間は何を手放しているのか、何を得たつもりで何を失っているのか、なぜ待ち時間が思考にならずスマホ消費になるのか、なぜ住まいは生活を抱え込めなくなっているのか、そう問うこと。これが文学の仕事ではないのか。文学は、世界を別の角度から見させる。日常のなかの当たり前を、当たり前でないものとして立ち上げる。誰も疑っていない装置の前で、これは何なのかと立ち止まらせる。

そう考えると、『文学は割に合う!』というタイトルへの私の不快感も、少しだけ別のかたちを取る。文学は割に合うのか。もし「割に合う」という言葉を、経済的利益や実用的成果の意味でだけ使うなら、私はやはりうんざりする。文学は資格試験の点数を直接上げてくれるわけではない。給料を即座に上げてくれるわけでもない。洗濯物を乾かしてくれるわけでもない。スマホ依存を自動的に止めてくれるわけでもない。その意味では、文学は割に合わない。少なくとも、短期的で、可視化可能で、換金可能な成果を求めるなら、文学ほど効率の悪いものはない。

だが、もし「割に合う」という言葉を、世界を見る力の回収不能な増幅として考えるなら、話は変わる。文学を読んでいる人間は、コインランドリーをただのコインランドリーとして見ないかもしれない。洗濯機の回転に、生活の外部化を見るかもしれない。待合室のスマホに、注意力の植民地化を見るかもしれない。ベランダのない部屋に、住居の商品化を見るかもしれない。学生の生活に、貧しさの標準化を見るかもしれない。自分が本を読めない一日に、社会制度と自己形成の緊張を見るかもしれない。文学は、役に立つというより、問いを増やす。問いを増やすものは、しばしば面倒である。面倒であるが、面倒であるからこそ、人間を人間の側に引き戻す。

私は今日、コンパニョンの本をほとんど読めなかった。だが、読めなかったことによって、かえってそのタイトルの皮肉を強く感じた。文学は割に合うのか。私はその問いに答える時間すら、試験勉強によって奪われている。さらに、洗濯のためにコインランドリーへ行き、そこで人間が浮いた時間をスマホに流し込む風景を見た。これは、文学を読む時間が失われていく社会の縮図でもある。人間は時間を節約しているようで、その節約された時間を別の装置に献上している。洗濯機が衣類を洗い、スマホが注意を洗い流す。残るのは、清潔な衣類と、少し薄くなった意識である。

だから私は、文学に期待する。文学には、こういう場面を見逃さないでほしい。いや、本当は文学に期待するというより、自分の読む力に期待したいのだろう。コインランドリーを見て、そこに生活の貧しさ、制度の貧しさ、住まいの貧しさ、待つことの消滅、注意力の収奪、便利さの罠を読むこと。『文学は割に合う!』というタイトルを見て、腹を立てながらも、その腹立ちそのものを思考の入口にすること。社労士試験で本を読む時間がないという現実を、ただの忙しさとしてではなく、制度を学ぶことと文学を読むことの奇妙な接点として捉えること。そういう読みの態度が、私にとっての読書日記なのだと思う。

読書日記とは、読んだ本の感想を書くことだけではない。読めなかった本の周辺に発生した生活の違和感を書くことでもある。本を開けなかった一日にも、読書はある。むしろ、本を開けないほど生活に圧迫されているときこそ、その圧迫の正体を読む必要がある。なぜ私は読めないのか。何が私の時間を奪っているのか。私は何に時間を差し出しているのか。何を必要として、何を必要だと思わされているのか。洗濯機の前でスマホを見る人間を笑っている私は、別の場所で同じことをしていないか。文学を擁護する私は、本当に文学を読む時間を守れているのか。試験勉強という実利の前で、文学の割に合わなさをどこまで引き受けられるのか。

コンパニョンの本については、明日以降、改めて読んで書きたい。今日はまだ、タイトルの前で立ち止まっているにすぎない。しかし、その立ち止まり方そのものが、すでに読書の一部である。『文学は割に合う!』という言葉にうんざりしながら、コインランドリーで人間の時間の使われ方にうんざりし、ベランダのない賃貸にうんざりし、スマホに吸われる待ち時間にうんざりする。だが、そのうんざりをただの愚痴で終わらせず、問いに変えるところに、文学の可能性がある。文学は割に合うのか。分からない。ただ少なくとも、文学は「これは誰のための何のシステムなのか」と問わせる。そう問えるかぎり、人間はまだ完全には洗濯機とスマホのあいだに挟み潰されていないのではないか。

 
 

 

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