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読書日記と哲学がメインです (不定期更新)

読書日記2172

 

つづきを展開

 

nainaiteiyan.hatenablog.com

 

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世の中には、楽しいことがよい、美味しいものがよい、便利なものがよい、快適なものがよい、という前提が深く浸透している。もちろん、それらを否定するつもりはない。美味しいものを食べれば嬉しい。楽しい時間を過ごせば気分は明るくなる。便利な道具があれば生活は楽になる。疲れた身体にとって、快適さは救いである。だから、物質的な幸福や感覚的な快楽を、すべて浅薄なものとして切り捨てることはできない。人間は身体をもって生きている以上、食べること、眠ること、休むこと、楽しむことから完全に自由ではない。

しかし最近、私はそのような幸福が、本当に人間にとって最も大切なものなのかと考えるようになった。もっと言えば、それらは人間が生きるうえでの十分条件ではあっても、必要条件ではないのではないか、と思うようになったのである。経済学の言葉でいえば、効用というものがある。人間は効用を最大化するように行動する。より快適で、より便利で、より満足できる選択をする。それはたしかに一面の真理である。しかし、その効用の最大化によって、人間は本当に人間として充実するのだろうか。快楽が増え、不快が減り、消費の選択肢が増え、生活の利便性が高まる。その先に、人間として生まれた意味は本当にあるのだろうか。

私は、だんだんと疑わしくなってきた。

幸福という言葉は便利である。何でも包み込める。美味しいものを食べる幸福。旅行に行く幸福。好きなものを買う幸福。気の合う人と過ごす幸福。安定した収入を得る幸福。健康でいる幸福。それらはすべて、たしかに幸福である。しかし、それらはどこかで「条件」に依存している。お金があること。時間があること。身体が動くこと。環境が整っていること。他人との関係が良好であること。つまり、それらの幸福は、外側の条件に支えられている。外側の条件が崩れたとき、それらは簡単に失われる。

では、条件が崩れてもなお残るものは何か。そこにこそ、人間の本質があるのではないか。

最近、私は執行草舟の動画を毎日見ている。そこで語られる言葉には、現代的な意味での幸福論とはまったく違うものがある。人生を楽しむとか、自己実現するとか、合理的に成功するとか、そういう言葉とは違う。むしろ、人生を何に捧げるのか、何のために自分を燃やすのか、何を理想として生きるのか、という問いが前面に出てくる。そこでは、人間は快適になるために生きているのではない。人間は自分を超えた何かに仕えるために生きている。少なくとも、そう生きようとするところに、人間の尊厳がある。

この感覚は、池田晶子の思想とも重なる。池田晶子は、世の中の常識や制度や価値観を、そのまま受け入れる人ではなかった。むしろ、「それは本当にそうなのか」と問い続けた人である。人は死ぬ。人生は終わる。社会的成功も、財産も、評判も、肉体も、いずれ消える。では、そのなかで何を本気で考えるのか。池田晶子の言葉には、俗世間の幸福を突き抜けて、考えることそのものの孤独な強度がある。考えるとは、暇つぶしではない。情報処理でもない。自分の存在を賭けて、世界と向き合うことである。そこには、効用では測れない価値がある。

岡本太郎もまた、同じ場所に立っているように思う。岡本太郎にとって、芸術とは上手に作ることではなかった。評価されることでも、売れることでも、社会に受け入れられることでもなかった。むしろ、爆発である。自分を安全な場所に置いたまま表現するのではなく、生命そのものを噴出させること。合理性や快適さや世間的な成功からはみ出すこと。岡本太郎の言葉や作品には、幸福になるために生きるのではなく、生きることそのものを燃焼させるという感覚がある。ここにもまた、物質的幸福を超えた価値がある。

そして小室直樹である。小室直樹のいう「行動的禁欲」という言葉を、私は最近あらためて考えている。禁欲というと、一般には欲望を抑えること、物質を拒否すること、楽しみを遠ざけることのように思われる。しかし、小室直樹のいう行動的禁欲は、単なる我慢や清貧思想ではない。物質そのものを悪とするのではない。そうではなく、精神が物質に先行するということである。行動が、ただ欲望や環境や損得によって決まるのではなく、精神の命令によって決まるということである。

ここが重要である。物質を拒否することが目的なのではない。快楽を憎むことが目的なのでもない。そうではなく、快楽や物質が人間の主人になってはいけないのである。食べたいから食べる。楽だから選ぶ。得だから動く。怖いから逃げる。損だからやめる。そうした行動原理だけで生きるなら、人間は外部条件の反応装置になってしまう。環境が刺激を与え、身体が反応し、欲望が選択を決める。そのとき、精神はどこにあるのか。理想はどこにあるのか。信念はどこにあるのか。

行動的禁欲とは、行動によって精神を立ち上げることでもある。精神が先にあると言っても、それは頭の中で理想を唱えるだけでは足りない。むしろ、行動が精神を証明する。何を選んだか。何を拒んだか。何を続けたか。何に耐えたか。何のために時間を使ったか。人間の精神は、抽象的な言葉ではなく、行動のなかに現れる。だから行動的禁欲とは、精神が物質に先行するという思想であると同時に、行動によって精神を規定しなおす決意表明でもある。

私はここに、非常に強く惹かれている。

現代では、欲望を満たすことが肯定される。自分を大切にすること。無理をしないこと。楽しいことをすること。好きなものを選ぶこと。嫌なことから離れること。それらは一見すると、人間を解放する言葉である。しかし、それがいつの間にか、精神の退却を正当化する言葉になってはいないだろうか。しんどいからやめる。楽しくないからやめる。コスパが悪いからやめる。意味が見えないからやめる。評価されないからやめる。そうやって人間は、自分の理想ではなく、自分の気分に従うようになる。

気分に従うことは、自由に見えて、実は不自由である。なぜなら、気分は簡単に変わるからである。疲れていれば世界はつまらなく見える。腹が減っていれば人に優しくできない。評価されなければ努力は馬鹿らしくなる。少し快適なものがあれば、すぐにそちらへ流れる。気分を主人にしている限り、人間は常に外部の条件に左右される。そこには精神の垂直性がない。理想に向かって自分を引き上げる力がない。

もちろん、私は自分が完全にそうできているとは思わない。むしろ、できていないからこそ、この問題が気になるのである。美味しいものに惹かれる。楽な方に流れる。疲れれば弱音を吐く。損得も気にする。評価も気になる。自分のなかには、物質的幸福を求める弱さがいくらでもある。だからこそ、精神が物質に先行するという言葉が、単なる思想ではなく、切実な命令として響く。

人間は、物質的幸福なしでも生きられる、などと言いたいのではない。そんな単純な話ではない。貧困や病気や孤立を美化することもできない。生活の基盤がなければ、精神を保つことも難しい。だが、それでもなお、生活の基盤と人生の意味は別である。生きるための条件と、生きる意味は同じではない。食べ物は必要である。住む場所も必要である。健康も大切である。しかし、それらが整ったからといって、人間が人間として完成するわけではない。むしろ、それらが整ったあとに、何のために生きるのかという問いが立ち上がる。

ここで、効用という言葉の限界が見えてくる。効用は、満足を測る。快不快を測る。選好を測る。しかし、人間には、満足を超えた価値がある。快よりも大切なものがある。不快でも引き受けるべきものがある。得にならなくてもやるべきことがある。誰にも評価されなくても守るべき理想がある。つまり、人間は効用の動物ではない。少なくとも、効用だけの動物であってはならない。

執行草舟、池田晶子、岡本太郎、小室直樹に共通しているのは、この効用を超える感覚であるように思う。生きるとは、快適になることではない。考えるとは、役に立つ情報を得ることではない。芸術とは、うまく評価されることではない。学問とは、資格や地位のためだけにあるのではない。人間は、自分より大きなもの、自分の欲望を超えたもの、自分の死を超えてなお意味をもつものに触れようとするとき、初めて人間になる。

これは、現代的にはかなり不便な思想である。なぜなら、現代社会は、人間を消費者として扱うことに慣れているからである。消費者としての人間には、欲望があればよい。選択肢があればよい。満足度があればよい。市場は、人間に「何が欲しいか」を聞く。しかし、「何のために生きるのか」は聞かない。市場は、欲望を洗練させる。より美味しいもの、より楽しいもの、より快適なもの、より便利なものを提示する。しかし、それらは人間の魂を深くするとは限らない。むしろ、魂の問いを忘れさせることすらある。

だから私は、最近、楽しいことや美味しいものに対して、以前よりも慎重になっている。それらを嫌いになったわけではない。ただ、それらを人生の中心に置くことに疑問をもつようになった。楽しいからよい、美味しいからよい、気持ちいいからよい、得だからよい、という判断だけで生きるなら、自分は何のために生まれたのか分からなくなる。人間として生まれた意味は、快楽の量では測れない。消費の質でも測れない。むしろ、自分が何を理想として掲げ、その理想のためにどれだけ自分を律することができたかに宿るのではないか。

行動的禁欲とは、その意味で、単なる節制ではない。精神の主権を取り戻すことである。物質が私を動かすのではない。快楽が私を支配するのではない。環境が私の行動を決めるのではない。私の精神が、私の行動を決める。その決意である。もちろん、これは容易ではない。人間は弱い。精神はすぐに物質に負ける。理想はすぐに気分に負ける。志はすぐに疲労に負ける。だからこそ、行動が必要になる。精神が弱いから行動するのである。理想が揺らぐから、習慣にするのである。決意が消えやすいから、毎日繰り返すのである。

私は読書日記を書き続けている。毎週書くということも、ひとつの行動的禁欲なのかもしれない。読みたいから読む日もある。書きたいから書く日もある。しかし、そうでない日もある。疲れている日もある。気分が乗らない日もある。何を書けばよいか分からない日もある。それでも書く。なぜなら、気分が書かせるのではなく、書くという行動が精神をつくるからである。読書とは、知識を増やすためだけのものではない。自分の精神を、物質や気分や世間の流れから引き離すための行為でもある。

本を読むとは、効用から少し離れることである。すぐに役立たない言葉に身を置くことである。自分の生活とは直接関係のない思想に触れることである。死者の言葉を読み、遠い時代の問いを引き受け、まだ自分の中で答えにならないものを抱えることである。これは、現代的な効率の観点から見れば、ずいぶん不合理な営みである。しかし、その不合理さのなかにこそ、人間の精神は宿る。役に立つから読むのではない。精神を失わないために読むのである。

美味しいものは、食べれば消える。楽しい時間も、過ぎれば終わる。買ったものも、やがて古びる。身体の快適さも、いつまでも続くわけではない。しかし、理想に向かって自分を律した経験は、消えにくい。誰にも見られていないところで、自分の精神を裏切らなかった経験は、深いところに残る。損をしても、楽でなくても、面倒でも、自分が大切だと思うものを選んだ経験は、人間の芯になる。

人間として生まれた意味は、そこにあるのではないか。

私は、物質的幸福を否定したいのではない。むしろ、それを十分条件として認めたうえで、それでもなお必要条件ではないと言いたいのである。人間には食べ物がいる。休息がいる。楽しみもいる。しかし、それだけでは人間ではない。人間が人間であるためには、精神的価値がいる。理想がいる。自分を超えたものへの忠誠がいる。快楽ではなく意味を選ぶ瞬間がいる。損得ではなく信念を選ぶ瞬間がいる。

だから、私はこれからますます、自分の行動が何によって決まっているのかを見ていきたい。気分によって動いているのか。損得によって動いているのか。恐怖によって動いているのか。承認欲求によって動いているのか。それとも、精神によって動いているのか。理想によって動いているのか。自分が本当に価値があると思うものによって動いているのか。

これは、きれいな精神論ではない。むしろ、日々の細部に宿る実践である。朝起きること。読むこと。書くこと。学ぶこと。約束を守ること。弱さに流されないこと。美味しいものや楽しいことに逃げる前に、いま自分が本当にやるべきことを問うこと。その積み重ねのなかでしか、精神は鍛えられない。

行動が精神を規定する。これは恐ろしい言葉でもある。なぜなら、どれだけ立派なことを考えていても、行動がそれに反していれば、その人の精神は行動の側にあるからである。理想を語りながら快楽に流れるなら、その人の精神は理想ではなく快楽に従っている。信念を語りながら損得で逃げるなら、その人の精神は信念ではなく損得に従っている。だから、行動的禁欲とは、自分をごまかせない思想である。

私は、そこに賭けたいと思う。

楽しいこともある。美味しいものもある。快適な生活もある。それらを完全に捨てる必要はない。しかし、それらを主人にしてはならない。主人であるべきは精神である。理想である。人間として生まれた意味への問いである。私が読書を続けるのも、書くことを続けるのも、結局はそこに向かっているのだと思う。効用では測れないものを、効率では説明できないものを、消費では手に入らないものを、自分の行動によって少しずつ確かめていく。

人間は、ただ幸福になるために生まれたのではない。少なくとも、快適に満足するためだけに生まれたのではない。人間は、自分の精神を鍛え、自分の理想を掲げ、その理想のために行動するために生まれたのではないか。物質を否定するのではなく、物質より先に精神を置くこと。快楽を憎むのではなく、快楽より高い価値をもつこと。生活を捨てるのではなく、生活の中で精神を主にすること。

それが、いま私の考える行動的禁欲である。そしてそれは、読書日記を書くという私の日々の営みにも、そのまま接続している。読むことは、精神を物質から引き離すことである。書くことは、行動によって精神を刻むことである。続けることは、気分ではなく理想を主人にすることである。ならば、私は今日もまた、楽しいからではなく、得だからでもなく、精神を精神として保つために書くのである。

人間として生まれた意味は、満たされることの中にあるのか、それとも、自分を超えた理想に向かって自分を差し出すことの中にあるのか。