
つづきを展開
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
日記
今日は、詳細を書けない。書けないのだが、書けないということ自体が、すでに今日の出来事の一部になっている。何があったのかを説明できない。誰がどうしたとか、どこで何が起きたとか、そういう輪郭を与えてしまうと、たちまち書くべきでない領域に踏み込んでしまう。だから、今日の読書日記は、出来事そのものを書くのではなく、その出来事が私の内部に残した余熱を書くことになる。つまり、説明できないのに、たしかに私を一日生かしたものについて書くのである。
朝、目が覚めたとき、自然と吹き出しそうになる笑いがあった。これはなかなか珍しい。朝というものは、たいてい現実の復旧作業から始まる。眠っているあいだに一時停止していた労働、試験、生活、義務、予定、疲労、焦燥、そうしたものが一斉に再起動する。目覚めるというより、現実にログインさせられる感覚である。しかも今の私は、仕事と社労士試験のあいだで、日々を圧縮されている。冗談めかして言えば、毎朝「仕事まで社労士試験逝ってらっしゃい」と送り出されているようなものだ。いってらっしゃい、ではなく、逝ってらっしゃい。ここには笑いがあるが、笑いだけではない。ちょっとした真実がある。試験勉強とは、未来のために現在を差し出す営みであり、その差し出し方が過剰になると、生活そのものが供物のようになる。ゴールデンウィークでさえ、黄金どころか社労士試験で詰め詰め、すし詰めのスケジュールであった。自由時間という名前の箱を開けたら、中には問題集と暗記カードと不安がぎっしり詰まっていた、という感じである。
それでも今日は、妙に面白かった。何かが自分の中でほどけていた。いや、ほどけたというより、結び目がそのまま笑いになっていた。苦しみが消えたわけではない。試験の重さも、仕事の疲れも、予定の過密さも、何ひとつ消えていない。だが、それらの上に、妙な可笑しみが乗った。現実の構造は変わっていないのに、現実の質感が変わったのである。これは不思議なことである。人間は、条件が整えば元気になるのではない。時には、条件がまったく整っていないにもかかわらず、ひとつの出来事、ひとつの言葉、ひとつのズレ、ひとつの秘密のような可笑しさによって、一日を生ききれてしまう。今日の私は、まさにそのようにして一日を生きた。
この「詳細は書けないが、元気の源になったもの」という感覚は、読書日記にとって大事である。なぜなら、読書日記とは、出来事の報告書ではなく、出来事と読書が内部でどう交差したかを記録する形式だからである。出来事を全部書けないからといって、何も書けないわけではない。むしろ、書けない部分があるからこそ、書ける部分が鋭くなる。説明できない出来事が、説明可能な思想とぶつかる。その火花を書く。今日でいえば、その火花は、執行草舟『現代の考察』とヒルティ『幸福論』を読んだところで、よりはっきりした。
執行草舟を読んでいて、私はあらためて、損得勘定を避けようとする姿勢に引っかかった。引っかかったというより、共鳴した。執行草舟の文章には、効率や利得や合理的な成功をどこかで拒む強さがある。拒むというより、それらを人生の中心に置くことへの嫌悪がある。損か得か、有利か不利か、成功するかしないか、回収できるかできないか。現代の多くの判断は、この計算の網の中で行われる。就職も、勉強も、人間関係も、読書も、発信も、何かにつけて「それは何の役に立つのか」「どんなリターンがあるのか」「どう評価されるのか」という問いにさらされる。もちろん、損得勘定を完全に否定することはできない。生活は現実であり、現実には金も時間も体力も限界がある。だが、損得勘定が生の全体を覆ってしまうと、人間はどこかで腐る。計算によって守られるものはあるが、計算によって失われるものもある。
今日、執行草舟を読みながら思ったのは、彼が嫌っているのは単なる利己主義ではなく、損得勘定によって魂の向きが小さくなることなのではないか、ということである。損得で考える人間は、いつも自分の得になる範囲だけを見ている。自分が損をしない範囲、自分が傷つかない範囲、自分が回収できる範囲、自分が評価される範囲。その範囲内でなら、いくらでも善良になれる。いくらでも努力家になれる。いくらでも誠実そうに振る舞える。しかし、そこから一歩でも外に出た瞬間、態度が変わる。得にならないならやらない。評価されないなら引く。割に合わないなら見捨てる。そうした判断は、現代社会では賢いとされることすらある。だが、その賢さは、生を痩せさせる賢さである。自分の身を守るための知恵が、いつのまにか自分の魂を閉じ込める檻になる。
ここで思い出したのが、宮台真司教授の損得勘定への嫌悪である。宮台真司の議論にも、損得でしか動けない人間への強い批判がある。共同体、贈与、性愛、公共性、任侠、世界へのコミットメント。そうした言葉の背後には、計算を超えてしまうものへの関心があるように思う。人は、損得だけで動いているかぎり、本当には世界に関われない。なぜなら、損得勘定とは、世界を自分の利益に従属させる見方だからである。そこでは、世界は「自分に何をもたらすか」によって測られる。だが、世界に関わるとは、本来、自分の計算を超えたものに巻き込まれることでもある。自分の都合だけでは処理できない他者、出来事、責任、偶然、滑稽さ、痛み、喜びに触れることである。
執行草舟と宮台真司は、当然ながら思想の系譜も文体も立場も違う。だが、損得勘定への嫌悪という点では、どこかで響き合っているように感じた。どちらも、ただ合理的に生きることを疑っている。どちらも、人間が自分の利得を守るだけの存在に縮むことを拒んでいる。どちらも、割に合わないもの、説明しきれないもの、回収不能なものの中に、人間が人間であるための核心を見ている。私はそこに強く惹かれる。なぜなら、自分自身がいま、損得勘定だけでいえば、かなり割に合わない日々を送っているからである。
仕事をして、試験勉強をして、疲れて、また勉強する。問題集を回し、暗記カードを作り、数字と要件と届出先と期限を潰していく。しかも合格しなければならないという圧がある。甘い自己満足では済まない。社労士試験は、感想文を書けば受かる試験ではない。肢を切れなければ落ちる。覚えていなければ落ちる。曖昧な理解は本試験で処刑される。そういう意味で、今の私はきわめて実利的な勉強をしている。合格という目的があり、昇進や実務への接続もあり、人生の足場を作るための勉強である。にもかかわらず、これを単なる損得勘定でやっているわけではない。むしろ、損得勘定だけなら、ここまで自分を詰め込めないのではないかと思う。
なぜなら、損得勘定は、苦しみが一定ラインを超えるとすぐに撤退理由を作るからである。「ここまでやっても受かる保証はない」「疲れすぎると仕事に響く」「他にも道はある」「今年でなくてもいい」「もっと効率のいい選択がある」。こうした言葉は、どれも一見まともである。実際、まともである。だが、まともさだけで人は前に進めないことがある。損得で測るなら、努力はいつもリスクを抱えている。報われない可能性があるからである。それでもやるのは、得をするためだけではない。自分がそういう人間でありたいからである。前例を自分でつくる、という自分自身のモットーに背かないためである。いまの苦しみが、未来の評価に換算されるからではなく、いまこの苦しみ方そのものが、自分の生の形を作っているからである。
ヒルティ『幸福論』も、そこに重なってくる。ヒルティの幸福論は、快楽の増大や所有の拡張としての幸福ではない。むしろ、日々の仕事、義務、信仰、誠実、内的な秩序といったものの中に幸福を見ていく。幸福とは、何か派手な達成や特別な快感ではなく、生活の中で魂が正しい方向を向いている状態に近い。これは現代的な幸福観とはかなり違う。現代では幸福もまた、損得勘定の対象になりやすい。どんな経験がコスパよく幸福をもたらすか。どんな働き方がタイパよく充実を得られるか。どんな人間関係が自分にメリットを与えるか。幸福が、効率化された消費メニューになる。
しかし、ヒルティを読んでいると、幸福はもっと地味で、もっと厳しく、もっと深いものとして現れる。幸福は、都合のよい感情ではない。むしろ、苦しい日々を引き受けるための内的な姿勢である。今日の私が感じた「面白い一日だった」という感覚も、単に楽しい出来事があったからではない。仕事もある。試験もある。疲れもある。予定も詰まっている。それでも、朝から自然に笑いがこみ上げ、一日を生ききることができた。このときの幸福は、消費された快楽ではなく、内側から湧いた可笑しみであった。誰かに説明して承認してもらう必要のない、秘密の燃料のようなものであった。
ここで重要なのは、今日の笑いが「逃避」ではなかったということである。現実から目をそらすための笑いではなかった。むしろ、現実に戻っていくための笑いであった。社労士試験に追われる自分、仕事に向かう自分、予定に詰められる自分、その自分を少し離れたところから見て、「いや、これはこれで面白いではないか」と思える笑いである。悲惨を否認するのではなく、悲惨を少し横から見る。苦しみを消すのではなく、苦しみの中に滑稽さを見つける。これは、私にとってかなり大事な技術である。読書日記アプローチ、あるいは連続読書日記アプローチとは、結局のところ、この横から見る力を鍛えることなのかもしれない。
読書は、現実から逃げるためだけにあるのではない。現実を別の角度から見るためにある。今日の私にとって、執行草舟は損得勘定を超える生の強度を見せ、ヒルティは日々を支える内的幸福の可能性を見せた。そして、宮台真司の損得勘定への嫌悪がそこに重なった。すると、朝の笑いも、ただの個人的な愉快な出来事ではなくなってくる。それは、損得勘定では説明できない元気であり、効率では測れない生命力であり、予定表には書き込めない幸福であった。
考えてみれば、私たちは「元気」をあまりに管理しようとしすぎているのかもしれない。睡眠時間、栄養、運動、タスク管理、メンタルケア、報酬設計。もちろん、それらは大事である。私自身、試験勉強を続けるには、体力管理も時間管理も必要である。だが、元気には管理できない部分がある。突然、何かが可笑しくなる。ある言葉が刺さる。ある偶然が一日を照らす。誰にも説明できない出来事が、心の中で小さな火種になる。その火種だけで、人は一日を生ききれてしまう。これは、損得勘定の外にある。計画の外にある。成果物の外にある。だが、確実に人生を動かしている。
損得勘定は、見えるものを扱う。時間、金、評価、点数、合格可能性、労力、成果。これらは大事である。社労士試験においても、見えるものを無視したら落ちる。何時間やったか。どの科目が弱いか。どの数字を覚えていないか。どの論点で誤答したか。これらを冷徹に潰す必要がある。そこに甘さを入れてはいけない。だが、それだけでは続かない。見えるものを積み上げるためには、見えない燃料が必要である。今日の私にとって、それは詳細を書けない面白い出来事であり、朝にこみ上げた笑いであり、執行草舟とヒルティを読んで得た共鳴であった。
つまり、私は今日、損得勘定の外側から、損得勘定に必要な力をもらったのである。これは逆説的である。試験に受かるためには合理的に勉強しなければならない。だが、合理的に勉強し続けるためには、合理性だけでは足りない。仕事をするには現実的でなければならない。だが、現実的であり続けるためには、現実を超える何かが必要である。生活を維持するには計算がいる。だが、計算だけで生活すると、生きる理由がやせ細る。だから、人間には、割に合わない読書、説明できない笑い、書けない出来事、回収不能な感動が必要なのだ。
執行草舟の損得を嫌う姿勢は、きれいごとではないと思う。損得を超えよ、と言うのは簡単である。しかし本当に損得を超えるには、損を引き受ける覚悟がいる。評価されない時間、報われない努力、理解されない選択、割に合わない誠実さ。それらを引き受けるには、内側に何かがなければならない。ヒルティの幸福論が教えるのも、たぶんその内側の秩序である。幸福とは、外部条件が都合よく整うことではなく、都合よく整わない世界の中で、それでも自分の向きを失わないことである。私は今日、そのことを少しだけ実感した。
面白いことがあった。詳細は書けない。しかし、その書けなさも含めて、今日の私には必要だった。すべてを書いてしまえば、出来事は情報になる。情報になれば、誰かに消費される。だが、書けないまま残るものは、内側で発酵する。笑いとして、元気として、明日への小さな火として残る。読書日記は、すべてを公開する場所ではない。むしろ、公開できないものの周囲を、言葉で丁寧になぞる場所である。中心にあるものを暴かず、その周辺に生まれた光を書く。今日は、そういう日記になった。
「仕事まで社労士試験逝ってらっしゃい」と言いながら、私は明日もたぶん勉強する。すし詰めの予定に文句を言いながら、それでも問題集を開く。損得勘定だけで見れば、もっと楽な日々はあるのかもしれない。だが、楽な日々が必ずしも生きた日々とは限らない。今日のように、なぜか笑いながら目覚め、執行草舟とヒルティを読み、宮台真司の損得勘定への嫌悪と重ね、自分の中にある割に合わない力を確認する日もある。こういう一日があるから、私はまだやれるのだと思う。
今日の新しい概念ラベルをつけるなら、「秘匿された笑いの効用」である。人に説明できない笑いが、人を一日だけ救うことがある。公開できない出来事が、公開されるどんな成果よりも深く、その人の内部を温めることがある。損得勘定では測れないものが、損得勘定の世界を生き抜く力になることがある。では、私たちはいったい、何を失わないために、今日も割に合わないものを読み、笑い、抱え込んで生きているのだろうか。