
つづきを展開
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日記
今日は宮台真司『宮台式人類学』の続きを読むことができた。読書というものは、何を読むかだけではなく、どういう環境で読めるかにも大きく左右される。今日は雨で涼しかった。そのおかげで電車もそこそこ涼しく、かなりよく読めた。これが蒸し暑い日だと、読書は一気に難しくなる。電車が蒸し風呂のようになると、身体がまず環境への耐久に意識を奪われるからである。本を読むとは、文字を目で追えば済むことではない。身体が落ち着き、呼吸が乱れず、余計な不快が少ないという条件が整って、ようやく思考が文章のリズムに入っていく。今日はそれができた。雨の日は往々にして憂鬱でもあるが、読書にとってはむしろ追い風になる日もある。暑さが少し退き、電車がまだ耐えられる空間であるなら、その移動時間は単なる運搬ではなく、思考の通路になる。今日の読書はまさにそういう読書であった。
『宮台式人類学』を読んでいてまず感じるのは、宮台教授の問題意識の太さである。ここでいう太さとは、論点の数の多さではない。むしろ逆である。世の中には情報量だけは多い本がいくらでもある。話題も豊富で、言及範囲も広く、話していることも一見もっともらしい。しかし読後に残るものが妙に薄い本がある。なぜ薄いのかと言えば、それは情報が足りないからではなく、問いが浅いからである。問題意識が浅い本は、どれほど知識を並べても、結局は「で、それで何を賭けているのか」が見えてこない。宮台真司の本には、それがない。いや、ないというより、問題意識がむしろ剥き出しなのである。だから読んでいて、単なる知識の補給では終わらない。こちらもまた、何を問題として引き受けるのかを問われる。そこに引き込まれる。
今日特に印象に残ったのは、宮台教授がリチャード・ローティをかなり評価していることが伝わってくる点である。宮台教授は辛口である。妙に曖昧な敬意や、社交辞令じみた保留をあまり好まない人に見える。頓珍漢な評論家や学者を遠慮なく「頓馬」と言い放つ。その切れ味は、ときに過剰ですらある。しかし、その容赦のなさがあるからこそ、逆に誰かを評価しているときの重みが増す。誰にでも一定の敬意を払う人の賞賛は、しばしば相対化される。だが、普段から切って捨てる人間が認めているとなると、その評価は軽くない。ローティが相当高く見られているらしい、ということが伝わるのは、そのためである。
しかも興味深いのは、そのローティが単なる哲学者としてではなく、どこか「人類学者的な哲学者」として読まれている気配である。これはかなり重要なことである。哲学者と人類学者は、ともすればまったく別の仕事をしているように見える。哲学者は概念を扱い、人類学者はフィールドを扱う。哲学者は普遍性へ向かい、人類学者は具体性へ降りていく。そんなふうに雑に分けることもできる。しかしローティの面白さは、その境界の曖昧さにあるのだろう。人間が何を真理と呼び、何を正当化と見なし、どのような共同体の語彙の中で自分を位置づけるのかという問いは、単なる認識論ではなく、ある種の文化理解でもある。つまり、人がどのような言葉の世界に住み、その言葉の世界のなかで何を当然視し、何を異端視するのかを見るという点で、ローティは確かに「人類学者的」なのである。真理を天上から降ろすのではなく、人間たちが実際にどういう語彙のなかで生きているかに目を向ける。その意味で、ローティが宮台的な関心と接続するのはよくわかる気がする。
宮台教授の問題意識を部分的に併せ持つ私は、この本に強く引き込まれる。ここで「部分的に」と書くのは大事である。全面的に同じということではない。宮台真司には宮台真司の視角があり、その尖鋭さがある。しかし、日々の違和感を単なる感情で終わらせず、その背後にある構造や関係性や規範の作動を見ようとする態度には、やはり深い共鳴がある。少子化、男女関係の不全、婚活市場の異常なまでの制度化、息苦しいコミュニケーション、表面的には多様性を称揚しつつ、実際には選別と最適化ばかりが進む社会のあり方。こうしたものは、一つひとつ別の話題のように見える。だが、宮台教授の理論を通すと、それらはバラバラの事件ではなく、同じ地盤の異なる噴出口のように見えてくる。ここが強い。世の中にはテーマごとの本がいくらでもある。少子化なら少子化、婚活なら婚活、若者論なら若者論、コミュニケーション不全ならそれ専用の本。しかしそうした本の多くは、個別事象の記述に終わる。あるいは政策論や処方箋に急ぎすぎる。その結果、「なぜそれがそのように起きるのか」という深い問いに届かない。宮台の議論は、その届かなさを補ってくる。
私は少子化の議論などを見ていて、いつもある種の物足りなさを感じてきた。経済的不安、保育制度の不足、働き方の問題、価値観の変化、たしかにどれも重要である。しかし、それらを並べただけでは、どこか説明した気になるだけで終わることがある。というのも、少子化とは単に子どもを持つための外的条件が不足しているという問題ではなく、人々がどのような世界観と関係性の様式のなかで生きているかという問題でもあるからである。婚活市場の異常さもそうである。そこでは人間関係が、制度化され、可視化され、比較可能にされ、評価軸の中に押し込められる。プロフィール、条件、年収、年齢、学歴、見た目、相性、マッチング率。これらは便利であると同時に、人間の関係形成の偶然性や厚みを切り落としていく。しかも人々は、その人工的な市場を、生身の愛や承認の不足を補う装置として使わざるをえない。ここには単なる「出会いの効率化」では済まない歪みがある。宮台のような視点が必要なのは、こうした歪みを、単なる不平不満や体験談ではなく、時代の社会構造として捉えるためである。
この本を読んで参考になったのは、目の前の個別問題を、その場限りの話としてではなく、背後にある人間理解や社会理解の枠組みに結びつけて考えられることである。たとえば、なぜ薄っぺらい本が多いのか。これは単に著者の知性が足りないから、編集が甘いから、流行に迎合しているから、という話ではない。もちろんそれらもあるだろう。しかしもっと深いところでは、問題を深く問うことそれ自体が歓迎されにくい環境があるのではないか。深い問いは、たいてい答えを不快にする。あるいは、答えを宙づりにする。すぐに役立つ処方箋を出さない。読者を気持ちよくさせない。だから市場では不利である。結論が簡単で、敵味方がわかりやすく、読後に自分が少し賢くなった気になれる本のほうが売れやすい。ここに薄っぺらさの構造がある。つまり薄っぺらい本が多いのは、たまたまではなく、むしろ社会がそれを要請している面があるのである。宮台真司の本は、その要請に従わない。その点で、読む側にも一定の負荷をかけてくる。だが、私はその負荷のある本のほうが好きである。
同じことは討論会にも言える。問題意識の薄っぺらい討論会が多い、という感覚もよくわかる。討論会や対談やシンポジウムは、しばしば「話している感」を生み出す装置になりやすい。登壇者が複数いて、言葉が行き交い、論点らしきものが並び、会場はなんとなく知的な空気になる。しかし、そこで本当に問いが深まっているかというと、怪しいことが多い。たいていは、互いに自分の既知の立場を少しずつ述べ合い、相手の言葉の危険な部分には踏み込まず、最後は「難しい問題ですね」で終わる。なぜそうなるのかと言えば、深い討論とは、互いの前提を揺らすことを含むからである。だがそれは、場を不穏にする。発言者の評判や立場にも傷がつきうる。すると、人は無意識に安全運転を始める。表面的には鋭いことを言っていても、根底ではリスクを避けている。結果として、見かけは過激でも、中身は案外ぬるい。宮台真司の議論が引きつけるのは、この安全運転を嫌うからであろう。もちろん嫌えば常によいというものではない。過剰な断言や乱暴な切断もある。だが少なくとも、頓馬を頓馬と言うことでしか守れない知的緊張はある。
ここでローティの評価に戻ると、宮台教授がローティを高く見るのは、ローティが単に「優しい相対主義者」だからではないように思える。ローティはしばしば、真理の絶対性を弱め、会話や連帯を重視する思想家のように受け取られる。たしかにそれは一面ではある。しかし本当に大事なのは、彼が人間の語彙の偶有性を引き受けつつ、なおそこでどう生きるかを問うた点ではないか。つまり、われわれは神の視点を持たない。最終的な基礎づけも持たない。だが、それでも何らかの共同性のなかで、自分の語彙を更新しながら生きていくしかない。この感覚は、じつはかなり人類学的である。人はつねにどこかの文化の内部にいて、その内部の言葉でしか世界を切り取れない。けれど、その文化の内部にいながら、別の語彙の可能性を学び、少しずつ自己を変えていくことはできる。ローティが評価されるのは、この「基礎づけなき更新可能性」のようなものを示したからではないか。宮台真司が問題にしているのも、結局は、人間たちがどのような語彙と規範の束のなかで生き、その語彙がどのように社会の現実を編み上げているか、ということなのだろう。
私はこういう本を読むと、自分の中にもともとあった違和感が、ようやく言葉を与えられる感じがする。日々の疑問は、多くの場合、疑問のまま散っていく。少子化はなぜこんなに単純に語られるのか。婚活市場はなぜこれほどまでに異様なのに、正常な制度のような顔をしているのか。人々はなぜ薄い本に飛びつき、薄い討論に満足してしまうのか。なぜ世の中には、問題に向き合っているふりをしながら、実際には問題を消費している言説がこれほど多いのか。こうした問いは、放っておくと愚痴にもシニシズムにもなりうる。しかし宮台的な理論に触れると、それらは「構造を捉えようとする問い」として再編成される。つまり、単なる不満ではなく、分析の入口になる。ここがありがたい。読書とは、ときに新しい知識を得ることよりも、自分の中にすでにあった違和感を、より高い解像度で言い直してもらうことなのだと思う。
そしてもう一つ思うのは、本当に問題意識のある本は、読む側の問題意識まで試すということである。薄っぺらい本は、読者を褒める。あなたはもう十分に気づいています、あなたのモヤモヤは正しいです、この視点を持てば世界は見通せます、といった仕方で読者を安心させる。しかし厚みのある本はそうではない。お前の問いはまだ甘いのではないか、お前はまだ社会の表層しか見ていないのではないか、お前自身もまたその構造の一部なのではないか、と迫ってくる。宮台真司の本には、そういうところがある。読んでいて気持ちいいだけでは終わらない。こちらの知的怠慢も暴かれる。だからこそ、引き込まれるのである。読書の快楽とは、必ずしも心地よさだけではない。むしろ、自分の甘さを見せつけられながら、なお読み進めたくなるところに、深い読書の快楽はある。
今日の読書は、天候と環境に恵まれた読書でもあった。雨で涼しく、電車がそこまで蒸し風呂ではなかったからこそ、この種の本に入っていけた。こういうことは案外重要である。思想は純粋精神だけで読まれるのではない。電車の温度、身体の疲れ、天候の湿度、仕事帰りの消耗、そのすべてのなかで読まれる。読める日と読めない日があるのも当然である。だが今日は読めた。そして読めたからこそ、宮台真司の辛辣さ、ローティ評価の重み、人類学的な哲学という視点、自分自身の問題意識との接続、薄い本と薄い討論への苛立ち、それらが一本の線でつながった。今日はそういう日であった。
読書日記というのは、単に「何を読んだか」の記録ではない。その日に何が読めたか、その読書が自分のどの問題意識に触れたか、そしてその本によって日々の世界がどう組み替えられたかの記録でもある。今日の私は、『宮台式人類学』を通して、問題意識の厚みとは何かを改めて考えさせられた。世の中には、話題だけは時事的で、言葉だけは威勢がよく、しかし根のところで何も賭けていない本や議論があまりに多い。それに比べると、宮台真司の本は、好き嫌いは分かれるにせよ、少なくとも問いの深さにおいてごまかしていない。その深さに、私はかなり引かれている。ローティを高く評価する宮台教授の視線の先には、単なる学説史ではなく、人間たちがどういう語彙のなかで生き、どういう世界理解のなかで自分を正当化しているか、という大きな問いがある。その問いは、少子化にも婚活市場にも、薄い本にも薄い討論にも、静かにつながっている。だから私はこの本を面白いと思うだけでなく、参考になると思うのである。参考になるというのは、即役立つという意味ではない。世界をどう疑い、どう読むかの感覚を鍛えてくれるという意味である。そうだとすれば、いま私たちに本当に足りないのは、知識の量ではなく、問題意識を厚く持つための読書なのではないか。