補足
・・・・・・・・・・・・・
タレブは『身銭を切れ』のなかで、倫理を「制度の外側にある理想」ではなく、「リスクを引き受ける身体的行為」として語った。彼の言う「身銭を切る(skin in the game)」とは、単なる比喩ではない。倫理とは、ルールを守ることではなく、リスクを対称的に共有することなのだ。そこでは、抽象的な原則よりも、誰がどの程度、自らの身を差し出しているかが問われる。タレブの世界観において、法律は倫理の「後から来る形式」にすぎない。倫理が頑健であり続けるのは、それが身体に根ざし、制度よりも早く腐敗を察知するからである。
この「身体に根ざす倫理」という視点を、単に実践主義と片づけてはならない。タレブは、不確実な世界において知識や理論よりも「肌感覚」を重んじるが、それは反知性主義ではなく、むしろ知性の限界の自覚からくる倫理的感受性だ。彼が繰り返し批判するのは、リスクを他人に転嫁しながら責任を語るエリートたちであり、そこに「不対称性=不正義」を見る。倫理とは、知識よりも先に行動するもの。つまり、倫理とは、身体のかたちをした真理なのだ。
だが、その身体的倫理はすぐに制度と衝突する。制度は本質的に「一般化」の言語を用いる。タレブも言うように、一般性は個別性を破壊する。だれか一人の具体的な痛みを取りこぼして、平均的な「人間」像を作り上げる。法律は時とともに倫理に近づくかもしれないが、それはあくまで「倫理が先にあり続ける」場合に限られる。倫理は生まれ変わるたびに制度を刺激する。だから倫理は法より頑健であり、倫理の腐敗が最も危険なのだ。
このとき思い出すのが、『資本主義にとって倫理とは何か』の一節である。パーフィットを参照しながら、功利主義・契約論・カント倫理という三つの伝統を統合可能だとする議論は、倫理の形式的普遍性を再構築しようとする試みだ。しかし、この普遍性の夢はタレブ的視点から見ると危うい。なぜなら、その普遍性はリスクから切り離された観念であり、誰の身体も傷つかない倫理は、もはや倫理ではないからだ。倫理とは「痛みの分有」であり、制度化とはその痛みの転写である。形式的整合性の背後に、どれほどの現実的リスクが引き受けられているか。その問いなしに、制度は容易に倫理の模倣へと堕ちる。
だが同時に、制度の役割を全否定することもできない。制度は、倫理の身体性を「翻訳」する仕組みでもある。タレブが言う「不法行為法」がまさにそうだ。被害者が損害を訴え、加害者が身銭を切るという構造は、倫理の対称性を法制度の形で再現する。制度が倫理を模倣するのではなく、倫理の実践を「反射」させるのだ。したがって、制度は倫理の敵ではなく、倫理の「翻訳装置」として存在する。問題は、翻訳の精度をどう保つかにある。倫理の語りが制度に届かなくなるとき、社会は形式だけを保存する幽霊になる。
そしてもう一つの層――「言論」がある。
キケロ『弁論家について』は、この三層構造を古代ローマの文脈で先取りしている。人間が獣と異なるのは、言葉によって共に考え、共に生きることができるからだと彼は述べる。だがその言葉は、真理を単に伝達するものではない。弁論とは、不確実な状況の中で判断を引き受ける行為である。弁論家が取り扱う事柄はすべて曖昧であり、決して完全な知識の体系に収まらない。だからこそ弁論には勇気が必要だ。タレブの言う「身銭を切る」ことは、キケロの言う「知りつつ語る」ことと本質的に同型である。どちらも、「語ることにおいて自らを賭ける」という倫理の身体的実践なのだ。
このとき、言論は制度の外にあるようでいて、実は制度の生成原理に近い。キケロは言論こそが共同体を生み出したと述べた。つまり、言論とは制度を生み出す倫理の媒体であり、倫理の身体を社会的形象へと変換する場である。倫理が身体に宿り、制度がそれを翻訳し、言論がそれらを媒介して共同体を形成する。この三層が連動してこそ、倫理は生きて働く。言論なき倫理は沈黙の信条にすぎず、制度なき倫理は暴力へと転化する。逆に、身体なき倫理は空疎な理念となる。三層の均衡が崩れたとき、倫理は実践性を失う。
今日の社会では、この三層の断絶が深刻化している。制度は形式を維持することに忙しく、身体はリスクを引き受ける場を奪われ、言論は安全圏からの評論に閉じこもる。匿名的ネット空間では、言論が身体性を失い、制度はその無責任を取り締まることに追われる。私たちの時代は、まさに「身銭を切らない倫理」の時代である。そこでは、正しさを語ることが容易であるほど、誰も傷つかない「倫理の模倣」が蔓延する。
けれども、倫理はもともと「模倣不可能」なものではなかったか。倫理とは、誰かがリスクを引き受けることでしか現れない、一回限りの出来事である。だからこそ、制度も言論も、その背後にある身体的リスクを想像し続けなければならない。倫理を制度化するとは、痛みを記録し直すことにほかならない。倫理を語るとは、その痛みを翻訳し、分有することにほかならない。
倫理の実践化をめぐる三層構造――身体・制度・言論。この三つは、決して上下関係にあるわけではない。むしろそれぞれが他の層を反射しながら、倫理を現前させる。タレブが語る身体的倫理、パーフィットが夢見る制度的整合性、そしてキケロが示した言論の勇気。これらは互いに対立しながらも、一本の軸で貫かれている。
それは、「不確実性を引き受ける誠実さ」である。
倫理は、知識のように体系化できない。
倫理は、制度のように保存できない。
倫理は、言論のように完全に伝わらない。
それでもなお、誰かが語り、行い、翻訳しようとする。
その無限の試みのなかにこそ、倫理は生き続けている。
では――私たちはいま、どの層から倫理を語りなおすべきだろうか。