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読書日記と哲学がメインです(毎日更新)

形式は悪だが役に立つ

形式とは何か。
それは、制度がつくる決まりごとであり、社会が自分を守るために生み出した慣習であり、人と人のあいだに置かれる「箱」のようなものである。
契約書、ルール、手順書、フォーマット、判子、署名、確認ボタン、約款。
どれも本質ではない。
しかし、どれも社会において圧倒的な力を持つ。

形式は悪だ。
その一言で断じたくなる誘惑は強い。
なぜなら形式は、人の魂の動きとは関係なく、ただ淡々と事務的に人を裁いていくからだ。
誠実さや真心をどれほど注いでも、形式に記載がなければ「なかったこと」になる。
逆に、不誠実であっても形式を満たしさえすれば「正しいこと」になってしまう。

形式は、魂に対して盲目である。
ゆえに形式は、ときに悪を生む。


だが、私は最近になって、その一枚岩の断罪が正しくないことを、身に染みて理解せざるをえなかった。
形式は悪だが、悪だからこそ役に立つのだ。
形式は魂を見ないが、魂の代わりに「誰が見ても変わらない記録」を残す。
個人の誠実は揺れるが、形式の誠実は揺れない。
形式は人を苦しめるが、人を守るときもある。
形式が悪でなければならない理由は、形式が「人間の不完全さ」を補完する装置だからである。

この逆説は、制度に怒り、疲弊し、失望した経験を持つ人ならば、きっと深い実感を伴って理解できるはずだ。


形式は、いつも人間の「誤り」から始まる。
口約束だけで済む世界なら契約などいらない。
信頼が通じる世界なら署名も印鑑もいらない。
悪意が存在しないなら、条文は一行で済む。

ところが現実は真逆だ。
悪意はいつもどこかに潜み、誤りは必ず起き、記憶は曖昧で、善意はすぐに裏切られる。
だからこそ、人間は「形式」という補助線なしには、公正を維持できない。

形式とは、人間の弱さに対する悲しい対策である。
だから私は形式を嫌悪しながらも、「必要悪」として存在し続けることを理解しはじめた。

しかも、形式があるからこそ、形式に依拠して「跳ね返す」こともできる。
形式は悪だが、こちらが形式を手にした瞬間、形式は他者の悪を抑止する武器にもなる。
これは実務の現場で痛感する真理だ。


人はしばしば、「形式は形式にすぎない」と言って軽視する。
しかし実際には、形式こそが物事を決定する最後の根拠である。
契約書に書いてあることは、現場の空気より強い。
市役所の書類は、人間の事情よりも硬い。
ガイドラインの一文は、担当者の感情よりも重い。

形式は“魂なき強権”である。
しかしその強権があるからこそ、強者であっても形式の前では一定の制約を受ける。
形式は誰をも特別扱いしない。
形式は誰をも救わないが、誰に対しても残酷に公平だ。

この「公平な残酷さ」が、制度を巨大にし、ときに悪を生む。
そして同時に、この「公平な残酷さ」が、人を守る唯一の防壁にもなる。

形式を憎悪しながら、形式に救われる瞬間がある。
その矛盾を受け入れなければ、制度の本質は見えてこない。


形式の恐ろしさは、不可逆性にある。
一度押された判子は戻らない。
一度送信された書面は取り消せない。
一度成立した契約は、後から「言った/言ってない」で覆せない。

形式は、戻らない。

だからこそ人間は、形式を使って弱者を縛る。
そして弱者は、形式に縛られたまま、声を上げることすらできなくなる。

形式が悪いのではない。
形式の「不可逆性」が悪を誘発するのだ。
制度の悪は、人間の悪よりもはるかに冷酷である。
人間の悪は気まぐれだが、制度の悪は確定的で、逃げ場がない。

しかし、ここでもまた逆説が立ち上がる。
形式は不可逆であるがゆえに、形式を逆手に取って使うこともできる。
不可逆を不可逆で返すことができる。
形式の残酷さを、形式の残酷さで跳ね返すことができる。

形式とは、人間の悪意を封じ込めるための「檻」でもあり、
こちらが状況を反転させるための「レバー」でもある。

形式は悪だが、使い方次第では味方にもなる。


ここで重要なのは、「誠実」は形式に宿らないという事実だ。
人間は形式に誠実さを求めがちだが、それは本質的な誤解だ。

形式は誠実を保証しない。
誠実であるかどうかは、人間の態度の問題であって制度の問題ではない。
制度は人の態度を変えないが、態度を暴露する。
形式があるからこそ、人の誠実・不誠実が露わになる。

形式は人格を変えない。
しかし形式は人格を映し出す鏡になる。

形式を軽視する者は、形式に足をすくわれる。
形式を乱用する者は、形式に追い詰められる。
形式を理解した者だけが、形式によって身を守る方法を知る。

これは社会の残酷な真理だ。


形式が悪に見えるのは、形式の背後にある「態度」が悪だからだ。
ルソーは「人間は善で、社会が悪だ」と言ったが、その命題を現代的に読み替えるなら、
「制度は悪で、態度が悪なら地獄になる」となる。

しかし逆もまた真だ。
「制度は悪だが、態度が善なら制度は味方になる」。

制度が人を救うのではない。
人が制度を使って人を救うのだ。
制度が人を傷つけるのではない。
人が制度を使って人を傷つけるのだ。

制度の善悪は、人の誠実さに比例する。
ゆえに制度は常に「人間の態度」によって変容する。

制度は空っぽである。
制度はただの形式であり、記号にすぎない。
悪も善も、制度の中にはない。
悪も善も、人間の側にある。


しかし、制度が空であることは、希望でもある。
制度が空だからこそ、人間が制度を更新できる。
制度が空だからこそ、こちらは制度を学び、制度を攻め、制度で返すことができる。
制度が空だからこそ、制度を「可逆」にできる。

形式は悪だ。
だが、形式の悪を理解した者だけが、それを味方にできる。

ここに「可逆性功利主義」の核心がある。
制度は不可逆だから悪を生むが、制度を可逆化すれば悪は減る。
形式は悪だが、形式の可逆性を高めれば、形式は善に転じる。

制度は人間を狡くするが、可逆性は人間を誠実にする。
制度は弱者を縛るが、可逆性は弱者を守る。
制度は不透明だが、可逆性は透明性をもたらす。

形式は悪だが、形式は役に立つ。
形式を憎んでいては、制度の海を生き抜けない。
形式を理解し、形式を操作し、形式を武器にできる者だけが、自分の生活と尊厳を守ることができる。


形式の背後には、無数の人間の態度がある。
その態度の累積が、制度を悪にもし、善にもし、機能不全にもする。

私たちは制度の犠牲者になることもある。
しかし制度の主体になることもできる。
制度に押されるだけの存在ではなく、制度を押し返す側にも立てる。

形式は悪だが、形式は使える。
形式は冷たいが、形式は公正だ。
形式は盲目だが、盲目だからこそ強い。

形式に裏切られることもある。
しかし形式を理解した者は、形式に救われる瞬間が必ず訪れる。

制度が悪であれ、人間が誠実であれば、制度は味方になる。
形式が悪であれ、形式を扱う態度が誠実であれば、形式は救済となる。

つまり——
形式とは、悪として造られた善である


私はいま、形式に傷つけられたが、形式によって守られもした。
形式の残酷さを知り、形式の有用性を学んだ。
形式の悪を見抜き、形式の力を実感した。

だからこそ思う。

形式は悪だが、悪を理解している者だけが、それを味方にできる。
制度は冷たいが、冷たさを理解している者だけが、自分の身を守れる。
形式は不完全だが、その不完全さを乗りこなすことで、人間の誠実はより強い光を帯びる。

形式に負けるな。
形式を憎むな。
形式を武器にせよ。

形式は悪だが、形式は役に立つ。
それが、制度と生きる私たちの、唯一の現実的で誠実な態度である。