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文脈読めない人間が多すぎるとか言いながら、切り抜き動画量産するのやめてもらっていいですか

つづきを展開

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この一文の中に、現代日本の言説空間のすべてが凝縮されている気がする。堀江貴文を筆頭に、インフルエンサーたちは口をそろえて「最近の人間は文脈を読めない」「言葉の意図を理解しない」「表面しか見ない」と嘆く。けれど、その彼らの発言が一番“表面”で再生され、“切り抜かれ”、文脈を失ったまま広がっている。しかも、その切り抜きを量産して広告収入を得ているのは、まさに彼ら自身の周辺――つまり「文脈を読め」と言う人たちのビジネスモデルそのものが、“文脈を切り捨てる”ことで成立しているのだ。これ以上の皮肉があるだろうか。

堀江はよく言う。「文字は読めても文章を読めない人間が多すぎる」と。だが、その発言自体が、切り抜き動画のタイトルとして最適すぎる。「堀江貴文『文字は読めても文章を読めない人間が多すぎる!』」というサムネが並び、赤い怒り顔の絵文字とともにクリックを誘う。視聴者は2分の短縮版を見て、「そうだそうだ」とコメントを残す。だが、その背後にある議論や文脈――誰に向けた言葉で、どんな議題の中で出てきたのか――それはもう失われている。堀江の言葉が「文脈を読めない人間」を批判するために使われながら、同時に「文脈を切断する機械」の燃料になっている。まるで「読解力」の神を祀る祭壇で、同時にその神の首を切り落として供物にしているようなものだ。

しかも面白いのは、この現象を誰もおかしいと思わなくなっていることだ。インフルエンサーが長文で語るよりも、「要点3分でわかるホリエモンの主張!」のほうが圧倒的に再生される。人は短く、早く、分かりやすくを求める。けれど、その「わかりやすさ」が、どんどん“わからなさ”を深めていく。文脈を削ることで理解した気になる。その気分だけが回る。その結果、「文脈を読めない人間」が量産される。つまり、堀江が嘆く「読めない人」を増やしているのは、堀江自身の発信スタイルと、それを拡散させるビジネス構造なのだ。これは単なる皮肉ではなく、構造的な自己矛盾だ。

切り抜き動画の文化は、一種の「文脈破壊装置」である。発言の中から刺激的な部分だけを抽出し、字幕をつけ、テンポを整え、強弱をつけて視聴者の感情を煽る。そこでは“理解”よりも“反応”が重視される。動画のコメント欄は「よく言ってくれた」「やっぱホリエモン最強」「こういうやつが多すぎる」といった断定で埋まり、議論の余地はない。人々は「文脈」を読むのではなく、「反応」を選ぶようになる。そして再生数が伸びるたびに、また次の切り抜きが生まれ、文脈はさらに粉砕されていく。こうして、堀江が嫌う“文脈を読めない社会”は、堀江の発言を素材にして作られていく。

しかもこの現象のいちばん厄介な点は、本人がその構造を否定しないどころか、むしろ黙認していることだ。切り抜き動画は収益をもたらす。知名度を保ち、影響力を拡大する。つまり、「文脈を削る行為」が経済的合理性をもって正当化されているのだ。堀江は経済合理主義の人間である。だから、「儲かる構造」は基本的に肯定する。たとえそれが自分の理念を裏切るものであっても、経済的に回っている限り、それは“社会的に正しい”とみなされる。この思考の根底にあるのは、「需要があるならそれは正義」という極端な市場信仰だ。だが、文脈というのは“需要”ではなく、“関係”で成り立っている。理解するとは、関係を築くことだ。そこには時間と努力と、相手への敬意が必要だ。だが、市場はその「時間の遅さ」を嫌う。だからこそ、文脈は経済のスピードの中で最初に犠牲になる。

もう一度言おう。文脈を読むとは、他者と一緒に世界を読むということだ。読解とは、共読である。だが、現代の情報空間では、「他者の言葉を自分に都合よく切り取ること」が“理解”だと錯覚されている。堀江が語る「読めない人間」とは、実はそういう仕組みの中で育っている。彼が批判すべきは“人間”ではなく、“装置”なのだ。だが彼は装置の中でビジネスをしている。だから批判できない。ここに致命的な倫理の空白がある。彼が「文脈を読め」と言えば言うほど、その言葉は切り抜かれ、再生され、文脈を失っていく。その繰り返しの中で、「読解」はどんどん商品化されていく。いまや「理解されること」も「誤解されること」も、どちらも再生数に変換される時代だ。誤解されても稼げる。むしろ、誤解されたほうが稼げる。そこに、かつての“言葉の倫理”は入り込む余地がない。

だが、本当に問題なのは、こうした矛盾が「誰にでもわかる形」で起きているのに、誰も止めないということだ。切り抜き動画をつくる人も、「これが仕事です」と言う。視聴者も「助かる」「時間がないから短くしてくれてありがたい」と言う。堀江も「勝手にやってくれていいよ」と言う。つまり、全員が少しずつ「文脈を削ること」に加担している。そしてその結果、社会全体が“短絡的に反応することしかできない身体”になっていく。読解力の欠如とは、個人の問題ではない。文脈の短縮化が、社会的習慣として定着してしまったことこそが問題なのだ。みんなが同じ速度で反応し、同じ怒り方をし、同じように理解した気になっている。そこに「読解」も「対話」もない。ただ“即時的な同意”だけがある。

では、なぜこんな状況が続くのか。それは、「文脈を読むこと」が、いまや“コスパの悪い行為”になってしまったからだ。ひとつの発言を丁寧に辿り、背景を調べ、発言者の立場や環境を考慮する――そんな面倒なことをするより、2分の動画で要点をつかんだ気になったほうが楽だ。そして、その“楽さ”を人々は「効率」と呼び始めた。だが効率とは、理解の深さを犠牲にすることでしか成立しない。つまり、文脈を削る社会とは、「理解よりも即効性を選んだ社会」なのだ。その結果、人はすぐに怒り、すぐに同意し、すぐに忘れる。切り抜き動画とは、まさに「忘却の装置」でもある。2分で理解し、3分で飽き、5分で別の話題に移る。その速度の中で、言葉の意味はもはや定着しない。

そして最後に、最大の皮肉を述べよう。文脈を読めと言いながら切り抜きで稼ぐこの構造は、堀江自身が提唱する“合理的社会”の最終形態でもあるということだ。合理とは、効率と利益の最大化である。文脈は非効率であり、利益を生まない。ならば切り捨てられるのは当然――そう考える人間にとって、文脈はコストでしかない。だから彼は矛盾しているようでいて、実は一貫している。彼にとって「文脈を読めない人間」は、非合理な人間だ。だが、その非合理さこそが、言葉を人間的にしている。つまり、彼が切り捨てた“読めない人間”のなかにこそ、人間の尊厳がある。

私は思う。文脈を読めない人間が多いのではない。文脈を削る社会が多すぎるのだ。人は誰しも、自分の速度でしか世界を読めない。早い人もいれば、遅い人もいる。誤読もまた、読解の一部だ。文脈とは、誰かが読む速度を待つ時間のことでもある。けれど、この社会はもう誰も待たない。だから、堀江貴文に言いたい。「文脈読めない人間が多すぎる」と言いながら、文脈を切り刻んで再生数を稼ぐ文化を野放しにするの、そろそろやめてもらっていいですか。あなたの言葉が再生されるたびに、言葉そのものがすこしずつ死んでいく。その沈黙を、誰が読めるというのか。