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日記
また一日が経ち、私はプラトン『政治家』を読み始めた。きっかけは、皮肉にもポパーである。ポパー『開かれた社会とその敵』第一巻(上)(下)を読み進めるほど、私は反発し、苛立ち、そしてそれでもページをめくり続けた。批判とは、相手を黙らせるためのものではなく、読者を次の課題本へ導くためのものでもある。ポパーの批判は、私にプラトンへ戻るよう命じた。いや、「命じた」という言い方がすでにポパー的である。より正確には、ポパーの吠え声が私の耳に残り、その耳障りを消すために、私は原典へ歩み寄らざるを得なくなった。『国家』だけでなく、『ゴルギアス』や『政治家』へ。批判が読書を連鎖させるとき、それはたしかに生産的である。
ここまでの対話と読書を、一度まとめておきたい。総集編のように、思考の糸を束ねておく。なぜなら私は、結論を急ぐより先に、違和感の履歴を保存することが必要だと感じているからである。読書日記とは、理解の展示ではなく、理解へ向かう足場の記録であり、違和感の保管庫である。違和感は、後で効く。
私は読書梟である。最近、ポパー『開かれた社会とその敵』第一巻(上)を読み終えたところから、この一連の思考が始まった。ヒトラーの全体主義とプラトンの理想国家が思想的・構造的に似ている——そう言われた瞬間、私は水と油の衝突を感じた。ヒトラーと哲人王は人格の温度が違いすぎる。片や煽動と暴力の政治であり、片や知の統治という高貴な自己像である。両者が似ていると言われれば、私はまず「似ていない」と答えたくなる。
しかし、読み進めるうちに、違和感は論点の外側へ移動した。二者が似ているかどうか以前に、ポパーの声が、説明ではなく吠えに聞こえたのである。私が「吠え」と呼ぶのは、単に語気が強いという意味ではない。断定の語尾、ラベルの圧縮、検察官のような言い回しが先に立ち、証拠の提示や反論の手続きが置き去りにされる瞬間のことである。結論の提示ではなく判決の読み上げ。説明ではなく摘発。論証ではなく断罪。私はそう聞き取ってしまった。
この「吠え声」への敏感さは、読み手の気分の問題ではなく、私の批判観と結びついている。私は議論において「閉じれるものなら閉じてみなさい」という態度を好む。閉じられるなら閉じてよい。閉じられないなら閉じるな。いや、さらに言えば、閉じられないものを、あたかも閉じたかのように装うな、ということである。閉じるとは真理の宣言ではない。定義し、設計し、運用し、反例に耐え、破綻したときの撤回手続きまで含めて、責任を発生させることだ。私はこの態度を、単なる厳しさとしてではなく、誠意の形式として捉えている。だから誠意の形式を欠いた攻撃、つまり閉じを伴わない断罪には、なおさら苛立ってしまう。
ポパーを読みながら、私は「前期プラトン/後期プラトン」という分け方にも違和感を覚えた。ソクラテスの生前と死後、つまり前期はソクラテス的で善く、後期は体系化するプラトンで危うい——この手の道徳劇が、私は嫌いである。プラトンは一人の人格の直線的発展ではなく、対話篇という形式の中で複数の声を操る。問いを開く回もあれば、問いを閉じる回もある。閉じることが即ち堕落ではない。問いを開くことが即ち正義でもない。ところがポパーは、ときどきこの道徳劇を便利に使っているように見える。ここが私の不快の核に触れた。
私が整理した不快の核は三つである。第一に意図断定である。「〜しようとした」「〜を企てた」といった言い回しで、作者の内面へ滑り込み、その意図を確定する。第二に人格史で裁くことである。「まだソクラテスの強い影響下にあった」というように、作品や議論の筋ではなく、精神の系譜を善玉悪玉の物語に仕立てる。第三に対話篇の多声性を潰すことである。対話篇の登場人物の発言を、作者本人の最終立場へ寄せ、単線の断罪に回収する。私はこの三点が重なった瞬間に、議論ではなく断罪を読まされているような気分になる。
その具体として、私はいくつかの箇所をメモした。ポパーはプラトンを、パルメニデスの不変の世界に触発されつつ、変化する社会秩序の探求に役立つ知識を与えようとした、と要約する。そしてそこに「奇妙な歴史法則」というラベルを置く。私はここで問いたくなる。閉じられているのは議論なのか、それとも作者の動機なのか。さらに自然主義の議論では、「『ゴルギアス』はまだソクラテスの影響下」「『国家』ではトラシュマコスの口にのせ倫理的個人主義と同一視」と断定する。ここで私は、善玉ソクラテス/悪玉プラトンの道徳劇と、対話篇の多声性の切断と、意図断定が一度に現れるのを見た。
判決。断罪。摘発。
「唯一の論拠」。
「同一視している」。
「まだ〜の影響下にあった」。
こういう短句が続くと、議論は細り、相手は縮む。縮んだ相手に向けて吠えることは容易い。だが私は、容易さのほうに知性を預けたくない。
とはいえ、私はポパーを切り捨てたくなかった。なぜなら吠え声の裏には現実の惨禍への恐怖があるのだろうとも思うからである。だが恐怖は免罪符ではない。恐怖を根拠にするなら、その恐怖の語り方こそ、いちど閉じて検査にかけるべきだ。私がポパーに感じた苛立ちは、道徳的な反発というより、批判の手続きが粗いのではないか、という反発であった。
私はそこで、ポパーを歴史学の土俵に引きずり出して裁きたい、と思った。もし「プラトンがヒトラーを生んだ元凶である」と言うなら、媒介を示せ、と迫りたい。誰がどのようにプラトンを受け取り、それがどの制度や運動へ変換され、どの段階で近代の全体主義へ接続したのか。伝播経路を閉じよ。反事実に耐えよ。代替要因と切り分けよ。固有の寄与を示せ。因果を証明できなければ、因果として語る批判は失敗に終わる。これは私の採点基準である。
その基準に照らして、私が下巻で最も強い拒否反応を覚えたのが、「プラトンの裏切りという事実を疑うことはできない」という断言である。岩波文庫版でポパーはこう書く。「わたくしには、プラトンの裏切りという事実を疑うことはできないし、かれが『国家』の主要な話し手としてソクラテスを利用し、かれをこの裏切りの共犯者に仕立てる試みにおいて成功したことも疑うことができない」。
私はこの一文を、ファクト/解釈/レトリックの三層に分解して保存しておきたい。なぜなら、ここにポパーの強さと粗さが同時に凝縮しているからである。
第一層、ファクト。『国家』においてソクラテスが主要な話し手として登場する、という点はテキスト上の事実である。ここは動かない。引用や章立ての問題ではなく、作品構造の事実である。
第二層、解釈。『国家』で語られる立場の一部が、他の対話篇に現れるソクラテス像(無知の自覚、問いの開放性、反権威の姿勢)と緊張関係にある、という読みは成立しうる。ここまでは学術的にも議論可能である。どこが緊張なのか、どの箇所が違うのか、どの程度連続しているのか、といった問いに分解できるからである。
第三層、レトリック。ここから先の「裏切りという事実」「共犯者に仕立てる試み」「成功した」という言い切りは、レトリックの層である。裏切りは価値判断であり、事実として検証できない。仕立てる試みは作者の意図断定であり、テキスト外の心理に踏み込む。成功したは読者操作の成否まで断定し、反証可能性が極めて弱い。私はこの第三層を、政治哲学的挑発としては理解できるが、ファクトとしては受け取れない。
私はこの三層の混線を、ポパーの吠え声の典型とみなす。ファクトが一つ置かれ、解釈が一つ立ち上がり、その上にレトリックが重なる。重なるだけならよいが、レトリックを「事実」と呼ぶことで、議論の閉じが偽装される。閉じられないものを閉じた顔で言い切る過剰が発生する。私はそこに苛立つ。だから私は判決をこう閉じる。ポパーのレトリックとしては強烈だが、ファクトとしては不合格だ。
ただし私は、この断言の燃料が何であるかも理解できる。『国家』で論じられる統治・教育・秩序維持の手段が、現代的感覚では非人道的に見える、ということである。階級固定、検閲、詩人追放、高貴な嘘、共同体の一体性の強制、選別の発想、そして古代の前提としての奴隷制の当然視。こうした手段の束が「人間を目的として扱っていない」「個人を部品化している」と映る。その違和感を抱くこと自体は自然であり、私も共有する部分がある。哲人が永遠に一国を支配し続けるという構想は、教育の観点からも難しそうだ、と私は感じた。哲人を産出し続ける教育の仕組みが永遠に機能し続けねばならないからである。
しかし、非人道的に見える手段があることと、「裏切りという事実」が成立することは別である。前者は規範評価として言える。後者は心理と史実の確定を要求する。ポパーはその飛躍を、断定で押し切る。その押し切りが私には吠え声として残る。
一方で、私はプラトンの側にも素直にうなずけない点を見つけている。ソクラテスは教育について答えが出せなかった、と私は記憶している。初期対話篇の感触は、徳や知の伝達について決着のつかない問いを残して終わる。問いを開いたままにするというより、問いを閉じる根拠がない、という正直さがある。もしソクラテス的な問いの開き方が人間の思考の正直さだとすれば、『国家』はその正直さを政治の設計図へ押し切っていく。私はその押し切りの力に惹かれつつ、同時に、その押し切りが現実の教育と伝承に耐えるのか、という懐疑を抱く。
こうして私は奇妙な位置に立つ。ポパーはプラトンを過剰に断罪しているように見える。だがプラトンの側も過剰に閉じているように見える。二つの過剰が衝突し、私の耳は断定に耐えられなくなる。その耐えられなさが「ウソついてないか?」という疑いの形を取る。ウソとは、事実の捏造というより、読解の手続きの粗さである。
このあたりで、私はジョン・ロック『ロック政治論集』のメモを挟みたくなる。「読書は知性を改善するためのものである」という一文である。現代は読書と娯楽が簡単に結びつく。読書もエンタメで、楽しくないなら読まなくていい、という空気がある。私は楽しい読書を否定しない。しかし読書の背骨には、知性の改善という硬い目的があってよい。いや、むしろそこがなければ読書はただの消費になる。
ここで私が言う知性の改善とは、知識量の増加ではない。断言の仕方の改善である。断言できるところは断言し、断言できないところは断言しない。断言するなら条件を付け、例外を扱い、撤回可能性まで含めて閉じる。私はポパーの断言に苛立ちながら、同時に自分の断言癖も検査されている。
私の読書は次第に政治経済へ広がった。明日以降は『ジョン・メイナード・ケインズ』という伝記の続きを読むつもりだ、と私は書いた。政治哲学の議論は、政治の現場や経済の現実と離れては空中戦になる。逆に現実だけに沈むと目先の利益に呑まれる。私は書物を通じて、現実の厚みと理念の鋭さの両方を手に入れたい。
その延長で、私はポランニー『経済の文明史』を読んだ。世界大恐慌の原因に関する章を読んだが、非常に読みにくい。要点もさっぱり伝わらない。金本位体制が関係あるのは分かった。そこで私は「インフレが強制的に止められないから起きたのか」と問うた。返ってきた説明は、むしろ逆である、というものだった。金本位制はインフレを止める力が強すぎて、デフレを止められなくした。景気が悪いときに本来やりたい金融緩和が、金準備の維持や資本流出への恐怖によって制約され、利上げ・緊縮へ追い込まれやすい。その結果、デフレ圧力が国際的に増幅しやすい。
私はこの説明で一枚図がはがれる感覚を得た。理解とは、付け足すことではなく、間違った図を捨てることでもある。ただしここでも私は、単純な言い切りに注意するよう促された。国の規模や金準備の厚み、運用の工夫によって縛りの強さは変わる。金本位制だから自動的にデフレ、という話ではない。私はこの補足を好む。断言できないときに断言しない能力こそが教養の匂いを持つ。
私はさらに「金がたくさん掘れる国は有利になるのか」「百年前に金に需要はあったのか」と問うた。金本位制下では金準備が政策余地や信用に影響するので、金が流入しやすい国は動きやすい。ただしそれを無条件に言い切るのは危険である。百年前の金の需要は工業用途よりも、貨幣・準備・国際決済といった制度上の需要が中心であった。金は材料というより信用の燃料である。このあたりの整理は、ポランニーの回りくどい文の背後にある骨格を掴む手助けになった。
そして私はAIの説明そのもののファクトチェックも求めた。AIも結構ミスるからである。ここでの収穫は、結論だけではなく、結論の閉じ方だった。骨格を閉じ、次に例外を閉じる。言い切りをしすぎたところは訂正する。この二段階の閉じ方は、そのまま読書日記の作法になる。
一方で、私は「ビジネスって感じ」の一日も経験した。大前研一『「知の衰退」からいかに脱却するか?』を読んだが、ビジネスマン漬けの実務人間の語りは、私にはピンと来なかった。「ビル・ゲイツは寄付しているから偉大だ」みたいな発言が軽く聞こえた。寄付は立派だが、偉大さを単一指標に回収すると、富の尺度で人間を測ることになる。ここで私の中に執行草舟の声が割り込む。寄付は罪滅ぼしだ、という断言である。私はこの断言の乱暴さも承知しているが、今日引っかかったのは大前の軽さのほうだった。
私はこの苛立ちを「言葉のコスト」として整理した。教養とは知識量ではなく、言葉の重みを知っていることである。偉大、改革、成長、正しい——こういう言葉をどの程度のコストで口にするか。コストを払う者が教養人であり、コストを払わずに流通させる者が教養なき者である。大前の語りは私にはコストが安く聞こえた。ポパーの語りはコストが高いように見えて、実はラベルの圧縮でコストを節約している気配がある。両者の違いは方向が違うが、刺さる場所は同じである。
ここから私は、日常語の分析へ進んだ。「それやる意味ある?」という言葉である。私はこの言葉に二つの刃——外在的価値(それ金になる?)と手段合理性(目的にかなう?)——を見つけ、さらに内在的価値(それ自体が目的)を置いた。そしてこの言葉が評価権の宣言になりうることを指摘した。ここまでの議論は私にとって重要だが、総集編としては短く閉じておく。
要点だけ書けばこうである。意味という語は便利すぎる。便利すぎる語は論点を圧縮し、人間を縮める。私はその圧縮を警戒する。だから、意味を問われたら分解する。価値か、必要性か、評価権か。そして手段が目的化したとき、それを回帰の契機に変える。回帰とは手段を捨てることではなく、手段を目的に従属させ直す設計である。私はこの配置転換を、生活のどこに実装できるかを考えたい。
こうして振り返ると、私の読書は一本の筋を持っている。その筋は「閉じ」の扱いである。プラトンは問いを閉じる力を持つ。『国家』は正義の定義を魂と都市の秩序へ接続し、教育、階級、統治、神話の運用まで含めて、巨大な答えへ押し切る。ポパーはその閉じを危険視し、壊す。しかし壊し方が吠えになり、閉じられないものを閉じた顔で言い切る。ポランニーは制度と社会の絡まりを回りくどく描き、電車の私には閉じにくい。そこで薄い図が入口になるが、薄さは短絡の危険も持つ。大前の語りは言葉のコストが安く、倫理がバッジ化する。私はその安さに抵抗する。
この筋を、私は「読書日記アプローチ」と呼びたい。形式にならない誠意、形式にとって誤配であれ、という私の合言葉は、ここにも当てはまる。私は、閉じることを恐れない。閉じれるものなら閉じてみなさい。しかし同時に、閉じられないものを閉じたふりをする言葉を警戒する。断言のコストを払え。因果を言うなら媒介を示せ。例外を扱え。撤回可能性を含めよ。これが私の誠意である。
そして今日、私はプラトン『政治家』を開いた。ここで私は、いったん自分の読書の方向感覚を調整したい。『国家』は巨大な設計図であり、ポパーはその設計図を危険物として扱う。私はその両方に惹かれ、両方に反発してきた。その結果、耳に残ったのはしばしば「吠え声」だった。断定の語尾、ラベルの圧縮、検察官のような語りが、議論を細らせる。だから私は次に、吠え声を解毒する別の種類のプラトンを読みたいと思った。
『政治家』が私を惹きつけるのは、そこでプラトンが、理想国家の夢よりも先に、統治という技術の困難へ踏み込むからである。『政治家』の中心には、分類法(ディアイレシス)という手続きがある。ものごとを二分し、また二分し、概念の枝を辿っていく。これは世界を単純化する技術であると同時に、単純化の危険を意識化する技術でもある。なぜなら分類の途中で、どこを切るか、何を同一視するか、何を例外にするかが、あらわになってしまうからである。分類は、ラベル貼りの粗暴さを、手続きとして晒す。私はここに解毒の気配を感じる。
統治の技術とは、単に権力の行使ではない。状況に応じた判断、適切さ、配分、タイミング、撤回。つまり「閉じ」をどう扱うかである。ポパーの吠え声が不快なのは、閉じられないものを閉じた顔で断言するからだった。『政治家』がもし、統治者の知を「状況に応じた尺度の運用」として描くなら、それは吠え声とは逆の方向へ私を導く。
とりわけ私が注目しているのは尺度(μέτρον)である。尺度とは、何かを測る基準であり、測るという行為そのものの倫理である。尺度は便利だ。便利すぎる尺度は人間を削る。私は大前研一の「寄付しているから偉大だ」という軽い尺度に苛立ち、ポパーの「裏切りという事実」という断定の尺度に苛立ち、日常語の「それやる意味ある?」という尺度に苛立った。尺度が乱用されるとき、世界は短句で裁かれ、議論は縮み、人間は手段になる。だから私は、尺度を扱う哲学を読みたい。尺度を捨てるのではない。尺度を、状況と人間性に奉仕する形へ戻す。『政治家』がそこで何をするのかを見たい。
ここで私は、自分の最近のキーワード——可逆性、撤回可能性——と、尺度(μέτρον)を直結させてみる。可逆性とは、やり直せること、引き返せること、修正できることである。だが「やり直せる」というだけでは甘い。何でもやり直せる世界は、責任が生まれない。可逆性は、責任を消すためではなく、責任を実装するために必要である。私はそう考えている。
そこで尺度が登場する。尺度とは、どこまでなら引き返せるのか、いつ引き返すのか、何をもって引き返すのかを決めるための基準である。撤回可能性の倫理とは、単に優しい倫理ではない。撤回の条件を、事前に、あるいは遅くとも途中で、言葉にしておく倫理である。撤回可能性は、撤回のルールを伴わない限り、ただの気分になる。だから私は、可逆性と尺度を結びつけたい。尺度なき可逆性は漂流であり、可逆性なき尺度は暴力だからである。
ポパーの吠え声が不快なのは、尺度が暴力になるからだ。裏切りという事実、という尺度が置かれた瞬間、議論は裁判へ変わる。撤回の手続きが消える。反証の通路が塞がれる。尺度は断定語尾と結びつき、相手を縮める。そこで私は問う。尺度は誰が持つのか。尺度は何に奉仕するのか。尺度は撤回可能なのか。尺度の運用そのものを、どうやって批判可能に保つのか。
この問いは、私の読書日記アプローチの中心と重なる。私は閉じることが好きだ。閉じれるものなら閉じてみなさい。しかし閉じには撤回が必要である。撤回できない閉じは暴走する。撤回し放題の閉じは責任を失う。だから必要なのは、閉じと撤回の両立であり、その両立のための尺度である。
『政治家』がもし、統治を「尺度の運用」として描くなら、私はそこに希望を見る。統治とは、理想を断言して人を並べることではなく、状況ごとに判断し、過剰を避け、適切さを探り、必要なら撤回し、再配置する技術であるはずだ。分類法(ディアイレシス)がラベル貼りを手続きとして露出させるのと同じように、尺度(μέτρον)は価値判断を手続きとして露出させる。価値判断のコストを払わせる。だから私は、尺度(μέτρον)を「吠え声の解毒剤」としてだけでなく、「可逆性の倫理の背骨」としても読みたい。
私はここで一つの仮説を置く。私が求めているのは、理想の否定ではない。理想を撤回可能にするための尺度である。理想が撤回可能になれば、理想は暴力になりにくい。理想が撤回可能になれば、理想は教育と伝承の現実に合わせて調整されうる。プラトンの理想国家が教育の観点から難しいのは、理想が制度として固定され、撤回の通路が見えにくいからだ。ポパーがプラトンに吠えるのは、撤回不能な理想が現実を傷つけた歴史を見たからだ。だが吠えるだけでは撤回の通路は作れない。撤回の通路を作るには、尺度が要る。
つまり
つづきは