さっきまで読書のことを書いていたはずなのに、気がつくと頭の中はまた現場のことに引き戻されている。最近、とくに強く感じるのは、「権利」という言葉の独り歩きだ。虐待、セクハラ、パワハラ、モラハラ、スメハラ――「〇〇ハラスメント」というラベルのカタログが、毎年のように増えていく。そのどれもが、本来は人を守るために必要だったはずの概念なのに、現場に立つ身から見ると、いつのまにか「こちらを縛る網の目」として機能している場面が多い。
指導する側は、毎日がリスクとの隣り合わせだ。何気ない注意のひと言が「パワハラ」に変換されるかもしれない。臭いへの配慮を伝えれば「スメハラ」のカウンター攻撃が飛んでくるかもしれない。冗談のつもりで言ったひと言が、「モラハラ」としてどこかに記録されるかもしれない。そうやって可能性だけが無限に増殖していく中で、こちらの心身は有限のまま、消耗していく。萎縮しないほうがおかしいし、気がおかしくなりそうだと感じる自分は、むしろ正気なのではないかとさえ思う。
もちろん、権利がいらないと言いたいわけではない。虐待もセクハラもパワハラも、実際に存在するし、それによって人生を壊されてきた人がいる。その現実を直視したうえで制度や概念が整えられてきたことも分かっている。問題は、「守るための概念」が、いつのまにか「相手を攻撃し、黙らせるためのカード」に変質していく、その過程のグレーゾーンだ。そこでは、事実そのものよりも、「どのラベルで語られるか」のほうが重くなってしまう。語られ方のほうが現実より強くなってしまう。
ここで、自分が感じている「リスク」は、タレブのいうリスク――いわゆる「身銭を切る」リスクとは、たしかに少し違う気がする。タレブの『身銭を切れ』で語られるリスクは、ざっくり言えば、「自分の判断や行動に、きちんと自分の身に降りかかる結果がついてくること」、つまり、意思決定と損害・利益がちゃんと結びついている状態のことだ。リスクを取る人間は、その分だけ損もするし、うまくいけば利益も得る。その対比のなかで、タレブは「リスクは他人に押しつけ、利益だけを自分にとるエリート」を批判する。
私たちが現場で感じているリスクは、もっと歪んだかたちをしている。まず第一に、それはほとんどマイナス方向にしか開いていない。失敗したとき、クレームが入ったとき、ハラスメント認定されたとき、そのダメージは確実にこちらに降りかかる。だが、丁寧に指導しても、ギリギリのところで現場を回しても、そのぶんだけ「身銭を切った」結果として、対価や権限や信頼が積み上がっていくかというと、そうはならないことが多い。プラス方向のリターンがほとんどないのに、マイナス方向の責任だけが増えていく。これはもはやリスクというより、「一方通行の損害可能性」だ。
第二に、このリスクは、タレブが想定するような「自分で選んで引き受けたリスク」とも違う。たしかに私はこの仕事を選んだし、「関わりたい」と思って福祉の道にいる。それでも、ハラスメント概念のインフレや権利言説の過剰な武器化まで、意識的に選び取ったわけではない。制度や世論やマスコミ報道が積み重なった結果として、現場の頭上にいつのまにか降ってきたリスクだ。タレブ流に言えば、これは「自分の外側で設計されたゲームボードの上に、強制的に立たされている状態」に近いのかもしれない。
つまり、タレブのいう健全なリスクは、「判断と結果が結びついていて、そこに一定の公正さや対称性がある状態」だとすれば、私たちがいま浴びているリスクは、「判断と結果のあいだの関係がゆがんでいて、しかも責任の向きだけがこちらに集中している状態」だ。判断したのは私でも、していなくても、結果はとにかく支援者側に押し寄せる。利用者の権利と、職員の権利が、対等なものとして語られることはほとんどない。ここにあるのは、「身銭を切る」リスクではなく、「身だけが切られ続ける」ようなリスクだ。
そんなことを考え始めると、自分の中にもまた別の「権利」が顔を出す。「私にだって、守られる権利があるはずだ」「私にだって、安心して指導できる権利があるはずだ」と。ところが、その権利は制度の言葉としてはなかなか出てこない。マニュアルも研修も、「権利を侵害しないように」という方向には細かく整備されていても、「権利を守られながらケアする側の心身をどう支えるか」という発想は、いつも後回しだ。だから現場に立っていると、「権利」という言葉が、自分のほうにはまったく向いてこないように感じてしまう。
おそらく私は、「真面目馬鹿」として、その不均衡を自分の中で何とかしようとしてしまうのだろう。利用者さんの権利を大事にしたい、虐待やハラスメントが起きないように気を配りたい、でも同時に、こちらの人間としての限界も守りたい。その両方を満たす解を見つけようとするから、余計に苦しくなる。どこかで「割り切り」や「自分を守る線引き」が必要なのかもしれないが、その線を引いた瞬間に、「自分は冷たい人間になってしまうのではないか」という自己否定が頭をもたげる。こうして、「裏切られた感=自分はこれだけやったのに=自己否定」といういつものループが、また静かに立ち上がってくる。
タレブがもし今の福祉現場を見たら、何と言うだろうか。「リスクを現場に押しつけ、意思決定権と利益は別のところにある構造だ」と指摘するかもしれない。そうだとしたら、私がいま感じている「リスク」は、タレブ的な意味での「勇気あるリスクテイカー」のしるしではなく、「誰かの設計したゲームのなかで、ひたすら損を押しつけられているプレイヤーのしるし」なのかもしれない。それを自覚したうえで、それでもなおここにとどまり続けることを、自分はどう位置づければいいのだろう。これは、自己犠牲なのか、それとも、まだ名前のついていない別種の「善」への手探りなのか。