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福祉と正義:就労支援から何ができるか

この問いを前にするとき、私はまず言葉を入れ替えたくなる。福祉は「欠けた人を支える」ことではない。アマルティア・センのケイパビリティ・アプローチに倣えば、福祉とは、人が「価値があると理由づけられる生」を実際に選べるように、〈できること〉と〈選べる場〉を共同で整える営みである。就労支援は、その営みがもっとも具体に問われる現場だ。だからこそ、ここから正義の輪郭を描き直してみたい。

まず、目的を置き換える必要がある。成果を「就いた/続いた」に一点化してしまうと、制度の都合に人を合わせる発想に回収されやすい。もちろん配置率も定着率も重要だが、それだけでは生の厚みは測れない。大事なのは「その人が価値をおく在り方・やり方」(functionings)と、それを現実に選べる自由の幅(capabilities)である。たとえば、時間の主権、体調の持続、学びの増分、静かな環境、他者貢献感、通院やケア責任との両立。就労支援のゴールは職種名ではなく、こうした価値の束で表すほうが正確だ。

次に、介入の向きを広げる。同じ支援でも、個人・社会・環境という転換要因によって結果が変わる。技能訓練(個人)に偏ると、「やってあげたのに変わらない」という嘆きが生まれやすい。偏見の緩和やネットワークの形成(社会)、通勤インフラや職場設計、柔軟な勤務規則(環境)に手を入れると、同じ人でも「選べる」幅が一気に広がる。就労支援のプランには、必ず三層に一本ずつテコを入れるという約束を置きたい。

さらに、測定の主権を取り戻す。厚生経済学のパレート原理は説得力があるが、無条件の自由の要求と衝突する場面もある。「誰のメーターで良し悪しを言うのか」を本人と共に決め直す必要がある。私は指標を二階建てにする。1階は制度指標(配置・定着・賃金)。2階は本人指標(価値束の達成度、選択肢の幅、日・週のリズム適合度、学びの増分)。数字を捨てるのではない。尺度を増やし、測り方の設計権を分有するのだ。

実務で効くのは、可逆的試行である。挑戦は小さく・短く・撤退路つきで設計する(例:週2→週3は2週間限定、撤退基準は「疲労スコア7/10が3日連続」等)。事後は「事実/感情/次の一手」を各一行で記録し、罰ではなく再設計に使う。失敗を禁じる現場は、挑戦を凍らせる。安全に失敗できる現場は、学習を加速する。

このとき、倫理の土台も二層に分けておきたい。カントの語彙を借りれば、完全義務=境界不完全義務=余白である。境界は細く明確に——虚偽・強制・搾取はしない。同意が曖昧な場で決めない。余白は厚く柔らかく——配慮・学び・回復の機会を増やす。就労支援の合言葉として「境界は細く、余白は厚く」は覚えやすい。

では、就労支援から正義にどう手を伸ばすか。鍵は熟議だ。センが示したように、民主主義は西洋の専売特許ではなく、公共的討議の実践は文化を越えて存在してきた。現場では、本人・支援者・雇用側で小さな三者熟議を回す。収入の増分と体力負荷、社会参加機会と静寂への必要、安定と学びの成長——こうした価値のトレードオフをテーブルに出し、暫定合意+見直し期日で運用する。固定化ではなく更新可能性こそ、自由の筋力を鍛える。

AIの時代、ここにもう少し手を入れられる。アルゴリズムは「決める装置」ではなく「選べる幅と理由を増やす装置」であるべきだ。求人・業務のレコメンドには理由の文章を必ず添える(通勤30分圏/午前稼働適合/静音環境など)。その理由文を本人が編集できるUIにする。介入は必ず「個人/社会/環境」のタグを付けて記録し、AIが個人対策への過度集中暗黙の排除条件(固定時間帯、過剰な同調規範)をハイライトする。データは説明可能性・撤回可能性・最小収集を原則に、当人と一枚紙の「AIの使い方の約束」を共作する。これだけで、技術は“支配”ではなく伴走に近づく。

もう少し具体を置く。初回面談では「職種希望」より前に価値の束を3〜5つ言語化する(例:通院と両立/午前集中/静かな環境/学びの継続)。各項目について転換要因を三層で一つずつ洗い出す。プランは必ず三層に一本ずつ介入を置き、可逆的試行を一つ設定、撤退基準と見直し日を明記する。成果は二階建て指標で月次レビュー。レビューのたびに「今日は誰のメーターで成功と言ったか?」を確認する。本人指標が動かないなら、まず測り方を見直す。これを回し続けると、「やってあげたのに変わらない」という嘆きは、「どの転換要因をどう再配置するか」という設計の会話に変わっていく。

ここまで来ると、「福祉と正義」は高所からの理念ではなく、日々の配置と語彙の問題だと見えてくる。私たちは数字を嫌わなくていい。ただ、単一の数字に従属しないでいたい。文化産業が配るメーターや“みんなの普通”にそのまま乗らず、測定の主権を本人と分有する。小さな不服従——夜の決定を朝に移す、非計測の20分を置く、役割を入れ替えて耐えられるか(可逆性)と明日説明できるか(公開性)で点検する。こうした身振りは禁欲ではなく、歩幅の回復である。

最後に、合言葉を三つだけ残す。境界は細く明確に(完全義務)余白は厚く柔らかく(不完全義務)測り方は当人と共に(測定の主権)。就労支援から始める福祉と正義は、派手ではないが、確かに生活のテンポを変える。テンポが変われば、選択の形も、関係の輪郭も、孤独の響きも、同じではいられない。