参考記事
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答え:負担を強調するから。
少子化は「問題」とされている。ニュースでは「出生率の低下」が連日報じられ、政治家は「対策」を叫び、役所は「施策」をつぎ込む。だが、ここで奇妙な逆説が生まれる。もし少子化対策をしたら、なぜ少子化が進むのか?──この問いは、私たちが「制度を信じる」ということのブラックユーモアを照らし出す。
そもそも「少子化対策」という言葉自体が、子どもを「社会問題の解決装置」として扱っている。子どもを産むことは、喜びでも偶然でもなく、「政策目標」になってしまう。すると、人々の心にこう刷り込まれるのだ──「子どもを産むのは大変なこと」「国家が対策を講じるほど危険な領域」。つまり、政策が厚くなればなるほど、「出産・子育てはリスクだ」という意識が強化される。結果として少子化は加速する。
イリイチは制度の「逆機能」を語った。学校は教育の名で学びを奪い、病院は医療の名で健康を奪う。同じように、国家の少子化対策は「子育ての負担を強調することで、子どもを持つことを避けさせる」。制度が問題を解決するどころか、問題を増幅する。これが制度の宿命だ。
考えてみれば、少子化対策のキャンペーンは常に「負担」を語る。保育所不足、教育費の高騰、共働きの困難。補助金や支援金はあるが、それ自体が「子育てはコストである」と宣伝する装置になっている。タレブ的に言えば、これは「脆弱性の集中」である。政策が「負担の一点」を強調するほど、社会全体は「子ども=負担」というナラティブに支配される。人は負担から逃げる。だから子どもはますます生まれなくなる。
もう一つの逆説は「制度化された愛」だ。子育ては制度が保障するものではなく、個人と共同体が育むものであった。しかし対策によって、子育ては「申請」と「給付」と「資格」の対象に変わる。母親や父親は「支援を受ける人」に転換する。支援を受けるということは「支援がなければ成立しないほど困難なこと」というメッセージを同時に植え付ける。支援が増えるほど「困難さ」が増幅される。
人は「大変そうなこと」に近づかない。もし国が「出産は楽しい」とは言わず、「出産は大変だから支援します」と言い続けるなら、人々は「やはり大変なんだ」と信じるようになる。制度は意図せずに「恐怖の広告代理店」と化す。
さらにブラックユーモアを加えるなら、少子化対策は「未来を人質に取る装置」でもある。政治家は「子どもが減れば国が滅びる」と脅す。だが「国が滅びる」イメージを刷り込まれると、人々はますます「そんな国に子どもを生みたくない」と思う。つまり、未来を守るための言説が、未来を拒絶させる。これが「もし少子化対策をしたら、なぜ少子化が進むのか?」のブラックな核である。
タレブは「未来を予測することは無意味だ」と言ったが、少子化対策は「未来を数値化」しようとする。出生率1.26を1.6に、1.8に、2.0に、と目標を掲げる。だが、数字化された未来は「生身の人間の物語」を奪う。人は「国家のKPI」のために子どもを産むのではない。むしろ「数値化」されればされるほど、人々は「自分の人生が道具にされる」と感じ、距離を取る。
そしてここにもうひとつの逆説がある。対策を議論すればするほど、「子どもを持たない人生」も選択肢として正当化されるのだ。支援策が強調されるほど、「子どもを持たない自由」もまた可視化される。子育てと非子育てが対等な選択肢になるのは良いことだが、それは結果的に「出生数」をさらに減らす。
結局、制度は「問題を解決する言葉」で語られるが、実際には「問題の深刻さを宣伝する言葉」として機能する。イリイチ流に言えば制度の逆機能、タレブ流に言えばナラティブの脆弱性。少子化対策をすればするほど、人は「子どもを持つこと」を危険視し、避けるようになる。
だから、この問いの答えはシンプルだ。
もし少子化対策したら、なぜ少子化が進むのか?
答え:負担を強調するから。
最後に・・・
あなたが子どもを考えるとき、その動機は「支援があるから」だろうか、それとも「支援がなくても育てたいから」だろうか?