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そろそろ人生やめませんか?

「そろそろ人生やめませんか?」なんて書くと、物騒なスパム広告みたいに見えるかもしれません。最初に確認しておきたいのは、ここで言う「人生をやめる」は、文字どおり命を絶つという意味ではまったくない、ということです。もし本当に「もう生きていたくない」としか思えないほど追い詰められているなら、文章なんかより先に、専門家や信頼できる人や相談窓口に話してほしい。それはこの文章の外側で、いま優先されるべきことです。ここで扱いたいのは、そこまで切迫してはいないけれど、「このままの“人生”を続けるのは、なんか違う気がする」という違和感のほうです。
では、「そろそろ人生やめませんか?」で問いかけたい“人生”とは何か。たとえば、こんなテンプレートです。いい学校に行って、そこそこの会社に入って、怒られない程度に成果を出し、ミスは隠し、残業は飲み込み、休日も「自己投資」と称して勉強し、できれば結婚して、家を買って、老後資金を計算して…という、あの一括パッケージ。「人生=長期的KPI付きのプロジェクト」みたいなやつ。私たちがふだん何気なく「ちゃんと生きている」と呼んでいるのは、多くの場合、このテンプレートにどこまで乗れているかという点数だったりします。
このテンプレート人生は、一見とても合理的です。進学、就職、昇給、結婚、出産、住宅ローン完済と、人生をいくつかのマイルストーンに分解し、そこに向けて努力していく。やるべきことは明確で、「次の目標」がいつも用意されている。だからこそ、ふと立ち止まってしまった瞬間、自分だけレールから降りてしまったような恐怖に襲われます。「この仕事を続けたくない」と思ったとき、「結婚したくない」と感じたとき、「子どもを持たない人生もありかも」と考えたとき、その違和感は「人生をサボっている自分」への罪悪感として浮かび上がってくる。そして私たちはその違和感ごと飲み込み、「まあ、こんなものか」と自分を説得しながらレールに戻ろうとする。
「そろそろ人生やめませんか?」というフレーズに込めたいのは、このテンプレートそのものから、いったん降りてみないか、という誘いです。一生続く長期プロジェクトとしての「人生」を、いったん解散してしまう。代わりに、「今日」「この1時間」「いま目の前にいる人」といった、もっと小さい単位で世界を扱ってみる。そのとき見えてくるものは、テンプレート人生から眺めたときとは、かなり違った風景かもしれません。
テンプレート人生を続けていると、何をしていても、頭の片隅に「これは将来の役に立つか?」という審査員が居座ります。この資格は転職に有利か、この人脈はキャリアの助けになるか、この本は年収アップに直結するか。審査員はきまって口が悪く、役に立たないものが大嫌いです。彼にとって、ただ散歩している時間や、意味もなくぼんやり過ごす夜や、目的のない読書は、すべて「人生のコスト」です。「そんな暇があるなら勉強しろ」「副業しろ」「筋トレしろ」。そうやって、人生はどこまでも“投資案件”のように見えてくる。
ところが、この審査員に人生を預けていると、じわじわとおかしなことが起こります。たしかにスキルや肩書きは増えていくかもしれないけれど、「これがしたい」という素朴な欲望の輪郭が曖昧になっていくのです。自分で選んでいるようでいて、実は「評価されるもの」「わかりやすく役に立つもの」だけに引きずられていく。気づけば、何かを始める理由も「伸びしろがありそうだから」とか「今後需要があるから」といった市場の言葉になっていて、「ただ好きだから」という言葉が口にしづらくなっている。本を読むことさえ、「アウトプット前提で読め」「要約してSNSに投稿しろ」と「成果」に組み込まれてしまう。
ここで提案したい「人生をやめる」は、この審査員に退職願いを出すことです。人生という長期プロジェクトの責任者を降りる。代わりに、「今日はここまで」「とりあえずこの1時間だけ」という単位で、契約社員のように自分の時間と関わってみる。明日のことも、来年のことも、とりあえず脇に置いて、「この1時間を、どうやって過ごしたいか」だけを考えてみる。そうすると、「役に立つかどうか」という物差しは、少し痩せ細って見え始めます。
「人生をやめる」と聞くと、「責任を放棄することだ」と思うかもしれません。むしろ逆で、テンプレートから降りることは、自分の時間と感情に対する責任を、他人ではなく自分で引き受けるということでもあります。たとえば、「みんながそうしているから」という理由ではなく、「自分は疲れているから、今日は仕事以外は何もしない」「読書をしても成果は出ないけれど、それでも読みたいから読む」と、自分の欲望に名前をつけ、選択肢を選び直す。これはかなり面倒な行為です。レールに乗り続けるほうが楽な局面も多いでしょう。しかし、その面倒くささのなかでしか見つからない「自分のペース」「自分の尺度」が確かに存在します。
「そろそろ人生やめませんか?」というタイトルは、言い換えれば「そろそろ“正解の人生”を卒業しませんか?」という誘いでもあります。良し悪しがあらかじめ決まっていて、“上位互換の人生”がランキング化されている世界から離れて、もっとローカルで、雑で、誰にも評価されない小さな営みに軸足を移してみる。たとえば、収入にはまったく結びつかない趣味に時間を使うとか、将来の役にも立たないと知りながら難解な本に付き合うとか、何の意味もないメモをノートに書き散らすとか。テンプレート人生の審査員からすると「それ、ムダ」と切り捨てられるようなことの中にこそ、自分だけの時間の感触や、世界との関わり方が潜んでいるのかもしれません。
もちろん、現実には、仕事や家事やケアや借金といった「やめたくてもやめられないもの」があります。「人生やめます」と宣言したところで、明日から急に山奥で自給自足できるわけではないし、ローンは待ってくれません。それでもなお、「テンプレートとしての人生をやめる」というのは、具体的な選択のスケールを少し変えるところから始められる気がします。休日の予定を、「疲れをとるための休息」ではなく、「誰にも説明しなくていい時間」を確保するために組み直してみる。毎日のタスク管理のなかに、「意味はないけど、なんとなくうれしいこと」を1つだけ入れてみる。SNSに上げるためではない写真を撮る。成果に結びつかないメモを書く。そうした小さな“脱線”を積み重ねることで、テンプレート人生のレールの脇に、もう1本、自分だけの細い小道がのびていきます。
「そろそろ人生やめませんか?」という問いは、その小道を歩き出すための、ちょっと過激な合図です。「このレールの外にも道がある」「“こう生きるべきだ”という人生像そのものを、一度疑ってみてもいい」と認めること。それは、人生を投げ出すことではなく、「人生」という大きすぎる単位をいったん解体し、「今日」「いま」「この手触り」にまで縮小してみる試みです。大きな物語をやめて、小さな日々に戻ること。それを、あなたはどのタイミングで、どんなふうに始めてみたいでしょうか。