はてなブログ大学文学部

読書日記と哲学がメインです(毎日更新)

3位より2位、2位より1位バイアス

2位の人に出会った。穏やかで、思慮深く、私の言葉をよく聞いてくれる人だった。そこに何の不満もなかったし、むしろ幸福の芽のようなものが確かに芽吹いていた。けれど、次に1位の人に出会ってしまった。その瞬間、私の感情はまるで何かのスイッチを押されたように、あっけなく更新された。2位の人を思い出すたびに、なぜあの人をあんなに良いと思っていたのかと、自分でも首をかしげてしまう。まるで、心そのものが新しい順位表に従って上書きされるように。
私はこれを「3位より2位、2位より1位バイアス」と呼ぶことにした。
つまり、他者を愛するという行為が、絶対的な感情ではなく、比較可能性の中での相対的評価に支配されてしまうという現象である。1位が現れれば2位は色あせ、3位しかいなければ2位が輝く。愛情の純粋さは順位の空間に拘束され、幸福は常に「もう少し上」が存在する限り暫定的なものにとどまる。
昔なら、2位の人が唯一の人になり得た。
なぜなら、1位の人に出会う機会がそもそもなかったからだ。
出会いとは偶然の重なりの中で閉じられた小さな宇宙であり、その内部でしか愛は成立しなかった。ところが今は、出会いの機会が指数関数的に増えている。マッチングアプリSNS、同好会、サークル、オンライン読書会――。選択肢が多いほど、人はより良い選択をできるはずだと信じられてきた。だが、実際には逆だ。選択肢の多さは、選択への信頼を蝕む。2位の人を愛し切れないのは、1位の幻影が常に視界の端で光っているからである。
このバイアスの恐ろしいところは、それが感情を更新可能なものにしてしまうことだ。
私たちは、気づかぬうちに「比較のアルゴリズム」を内面化している。
感情がアルゴリズムに合わせて自動的に並べ替えられる。
「より良い人」が現れるたびに、心の配置が再計算される。
恋愛はもはや静かな選択ではなく、絶えず最適化を迫られる動的システムになってしまった。
そして恐ろしいのは、この「1位バイアス」は恋愛だけではなく、人生全体に広がっていることだ。
職業、趣味、友人関係、住む場所――どれも「今よりもう少し良い選択肢」が存在するように見える。私たちは常に2位を愛しながら、心のどこかで1位の可能性を手放せずにいる。
結果として、幸福の基準は無限遠点に設定される。
幸福とは達成されるものではなく、常に上書きされるものになる。
私はときどき考える。
もし3位の人しか現れなかったら、私は2位の人を本当に愛せたのではないかと。
幸福とは、他の可能性を知らないことでしか成り立たないのではないか。
「知らない幸せ」こそが、もっとも誠実な幸福なのではないか。
だが、知ってしまった今となっては、それを選び直すことはできない。
認識は戻らない。比較の装置は一度心に組み込まれたら、もう外せないのだ。
この構造を少しだけ距離を置いて眺めてみると、そこにはある種の倫理的な問題が浮かび上がる。
誠意とは何か。
もし愛や好意が常に“より良い可能性”によって揺らぐものだとしたら、
「今ここにいる誰かを選ぶ」という行為はどんな意味を持つのだろう。
誠意は比較の終わりに生まれる。
だが、比較の終わらない世界で、誠意はどこに居場所を見つけるのか。
恋愛の誠意が成立するには、「もう少し良い人」が現れないという前提が必要だった。
ところが今や、アルゴリズムがその前提を徹底的に破壊している。
次々に提示される“1位候補”の影の中で、私たちは誰かに誠実であろうとする。
その誠実さは、もはや信仰に近い。
見えない未来の比較から、自分の心を守り抜くための信仰。
それを持てる人だけが、ほんのわずかでも「選ぶ」という行為に意味を見いだせる。
私はこのバイアスを、いわば**「愛の比較装置」**と呼び換えたい。
恋愛とは他者との関係であると同時に、自分自身の感情を“比較”という形で観測する行為でもある。
つまり、私たちは他人を愛するのではなく、
他人を通して「自分の感情がどこまで更新されるか」を観測している。
愛が本来の他者志向性を失い、自己観測の装置と化すとき、
誠意や献身は、あたかも時代遅れのプロトコルのように扱われる。
そうして、恋愛の“底”が下がっていく。
誠実であることよりも、「更新の可能性」を持つことが評価される社会。
相手の良さではなく、“より上位の候補を提示できるかどうか”が価値を決める。
私たちは人を愛しているようでいて、
実際には「比較のスリル」そのものに依存している。
もはや1位を愛しているのではなく、“1位を探し続けている自分”を愛しているのかもしれない。
それでも私は、2位の人のことをよく思い出す。
あの人と過ごした時間の中には、確かに静かな幸福があった。
1位の人に出会う前のあの感情は、嘘ではなかった。
あの幸福は、比較によって消されたのではなく、比較の網に捕らえられたのだ。
つまり、失われたのではなく、測り替えられた。
本当の喪失は、愛を失うことではなく、愛の絶対性を信じる力を失うことなのかもしれない。
「3位より2位、2位より1位バイアス」は、
単なる恋愛心理の問題ではなく、私たちがいかに**“比較という倫理”**の中で生きているかを暴く鏡である。
もし幸福や誠意が比較から自由になれないのだとしたら、
それでも誰かを選ぶとは、どういうことなのだろう。
私たちは本当に“1位”を求めているのか。
それとも、比較する快楽の中に生きているだけなのか。
――その問いに、まだ私は答えを持っていない。