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誠実の不透明性――性悪説時代の倫理

人はなぜ、正直であるよりも、軽やかである方を好むのだろうか。
 ある観察の場で、私はその問いを繰り返し思い出していた。言葉の応酬は軽快で、笑いはよく響く。だが、その滑らかさの中に、どこか奇妙な透明さ――つまり「誰の言葉にも重さが宿らない」状態――があった。人は自分を見せているようで、実のところ何も差し出していない。むしろ、差し出す前にすべてを演出に変えてしまう。
 その場において誠実であるとは、もはや道徳的行為ではない。それはリスクだ。誠実さとは、誤解される勇気である。だが現代の社会的場面では、誤解の余白を「非効率」とみなすアルゴリズムが先に立つ。すべてがスコア化され、反応の速度が価値を決める。慎重さや逡巡は、欠陥として読まれる。人は考える前に反応し、反応する前に印象を設計する。

 この世界で「悪い奴」がモテるように見えるのは、単に社会が堕落したからではない。むしろそれは性悪説が常識化した社会の副作用なのだ。人は誰もが自己中心的である、という了解が共有された瞬間、「自己中心的であることを隠さない人」が、逆説的に“正直者”として信頼を集める。つまり、露悪が誠実に見える構造が生まれるのだ。
 偽善的な「いい人」よりも、打算を堂々と掲げる「悪人」の方が、安心して観察できる。なぜなら、彼らの意図は予測可能だからだ。予測できるものは怖くない。予測できないのは、沈黙する人、考える人、笑わない人――つまり、誠実な人である。誠実さは常に、読みにくいノイズとして現れる。

 だが、「読めないもの」を人は恐れる。AIであれ人間であれ、理解できない誠意より、分かりやすい勢いを信じる傾向がある。そこに、現代の倫理的錯覚がある。悪はしばしば、強度を伴って可視化される。誠実はいつも、遅れてしか伝わらない。この時間差こそ、倫理の悲劇であり、同時にその尊厳でもある。

 私たちはいま、「透明性」という美徳のもとで生きている。だが、それはしばしば「わかりやすくあれ」という暴力を伴う。わかりやすい誠実、伝わりやすい優しさ、説明可能な愛。そこでは、曖昧さや逡巡や沈黙といった人間的な揺れが、すべてノイズとして排除される。
 しかし本来、誠実とは「伝わらなさ」に耐えることである。自分の思考や感情を、即座に翻訳できない時間。そのもどかしさを、他者とのあいだに留めておくこと。そこに、倫理の根がある。
 もし私が何かを信じているとすれば、それは「誠実は不透明であっていい」ということだ。むしろ不透明でなければ、誠実ではない。なぜなら、完全に透明な誠実は、他者を予定調和の中に閉じ込めてしまうからである。

 では、「悪い奴」はなぜあれほど魅力的なのか。
 おそらく彼らは、不透明性の演技者なのだ。つまり、「分かりやすい不誠実」を提示することで、他者に“安心できる距離”を与える。彼らの計算高さや軽薄さは、むしろ社会的潤滑剤として機能する。対して、真に誠実な人間は、その曖昧さゆえに社会的摩擦を生む。誠実とは、社会にとってのノイズであり、制度にとっての誤配である。

 だが、私は思う。倫理とは、まさにこの誤配からしか始まらないのではないか。
 制度が予定していない方向へと、思考や感情がずれていく瞬間。そのズレの中で初めて、「自分が自分である」という感覚が立ち上がる。
 誠実の不透明性とは、他者に読まれない自由であり、同時に自分が読み違える可能性でもある。誰かを完全に理解することも、理解されることもできないという限界を引き受けたとき、そこに倫理が芽生える。

 性悪説の時代において、「善くあろうとすること」は滑稽に見える。だが、滑稽であることを恐れてはいけない。倫理は、滑稽さのなかにしか実在しない。
 なぜなら、誠実はいつも“失敗”の形をして現れるからだ。
 誠実に話そうとして噛んでしまう。誠実に向き合おうとして沈黙してしまう。誠実に伝えようとして言葉を選びすぎる。そうした些細な失敗の積み重ねの中にこそ、人間の信頼の原型がある。

 そして、もし「悪い奴」がモテるのだとしても、それは彼らが制度の速度を生きているからだ。
 一方で、誠実な人はいつも制度の誤差を生きている。
 誤差は遅く、無駄で、測定されない。だが、その誤差の中にこそ、世界がまだ計算していない可能性が潜んでいる。

 だから私は信じたい。
 誠実であることの不器用さを、もう少し肯定してもいい時代が来ると。
 透明さよりも曖昧さを、効率よりも余白を、印象よりも内省を。
 性悪説の世界で、善意はただのノイズかもしれない。
 けれど、そのノイズを絶やさずに響かせることこそが、人間の最後の矜持ではないか。

 誠実とは、わかりにくさを抱えながら、それでも誰かと関わろうとする意志のことだ。
 たとえ世界がその意志を読み違えても――いや、読み違えるからこそ――そこにこそ、倫理の始まりがある。