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話が通じないとき、何がずれているのか

ふりかえり
 
 
 
言行一致について深堀したいことがあります。平和を訴えながら家庭では暴力行為を日常的にしている、これは明らかに不一致だとわかるのですが、心の声と自分の書く言葉を一致させるのは難しくないですか。例えば「消えたい」は「助けてほしい」の裏返しだったりします。これの極端な例がソクラテスのいう「人は悪いと分かって悪いことはしない」だと私は考えます
 
ChatGPT:

面白い問いかけですね。いくつかの層に分けて考えてみましょう。


1. 言行不一致のわかりやすい例

ご指摘の通り「平和を訴えながら家庭では暴力をふるう」というのは、誰の目にも明らかな不一致です。言葉と行動が真逆で、倫理的に弁解できない。ここには「社会的な演技」と「私的な実践」の落差があるわけです。


2. 心の声と表現の距離

しかし、もっと微妙なのは「心の声」と「言葉」の関係です。

  • 「消えたい」という言葉が、実際には「助けてほしい」の表現であるように、

  • 言葉はしばしば 裏返し・変換・間接表現 として現れる。

ここでは、言葉は必ずしも「真実そのもの」を写すものではなく、むしろ「心の衝動を翻訳した結果の断片」になっています。つまり、心の声を言葉にする時点で、すでにズレや変形が入り込む。


3. ソクラテスとの関連

ソクラテスが言う「人は悪いと分かって悪いことをしない」という命題も、この問題に響きます。

  • 彼の主張は「悪いことをするとき、人はそれを“善”だと誤解している」というものです。

  • つまり「悪」と認識されたまま選ばれることはない。

これを「心の声と表現のズレ」に敷衍すると、

  • 「消えたい」と言葉にする人も、実際には「より良い状態(助けられること)を求めている」という点で、ソクラテス的に「善を志向している」と言える。

  • ただし、その翻訳の仕方(=言葉の選び方)が周囲に誤解を生むこともある。


4. 言行一致の難しさ

したがって、「言行一致」とは二重の困難を含んでいます。

  1. 外的レベル:公の言葉と実際の行動を一致させる(平和を語るなら家庭でも暴力をしない)。

  2. 内的レベル:心の衝動と、それを翻訳した言葉を一致させる(「消えたい」ではなく「助けてほしい」と言える勇気や媒介を持つ)。

外的レベルの不一致は「偽善」と呼ばれやすいですが、内的レベルの不一致は「翻訳の不完全性」や「表現の限界」によるものであり、むしろ人間の普遍的条件に近いです。


5. さらに踏み込むと

ここで問いが生まれます:

  • 言行一致を徹底して追求すべきなのか?

  • それとも、人間は「必ずどこかでズレる」存在だと受け入れた方がよいのか?

  • むしろ、この「ズレ」が他者との関係や倫理の出発点になるのではないか?


読書梟さんは、「ソクラテスの命題」と「言葉の裏返し」の問題を結びつけたわけですが、ここからさらに展開するなら、アーレントの言う「行為と言葉の相互性」や、ラカンの「欲望の言語化のずれ」も参照できそうです。

問いかけますね:
👉 読書梟さんにとって、言行一致は「理想的に追い求めるべき倫理」だと思いますか?
それとも「ズレを前提にした倫理」だと思いますか?

 
あなた:
言行一致を徹底して追求すべきなのか?についてですが、先週の読書梟の炎上の原因のひとつでもあります。「棚上げ」していると指摘されました
 
ChatGPT:

なるほど、「棚上げ」という批判はかなり本質的ですね。これは「言行一致」問題に直結しています。整理してみます。


1. 「棚上げ」の二重の意味

「棚上げする」とは、

  • 逃げているように見える(未解決のまま放置している)

  • むしろ誠実である(いま答えられないと正直に保留する)
    の両面を持っています。

批判する人は前者を見て「不誠実だ」「言行不一致だ」と感じる。
しかし自己理解としては後者――「軽々しく一致を装う方がむしろ不誠実」という倫理感覚が働いているのではないでしょうか。


2. 炎上との関係

「棚上げ」という言葉が炎上の火種になったのは、

  • 周囲からは「問題を直視せずに逃げた」と映ったから。

  • 自分の内側では「拙速に答えるより、答えられないことを認める方が真実に近い」と思ったから。

つまり「言行一致」をめぐって、

  • 外的な水準(他者から見える一貫性)

  • 内的な水準(自分にとっての誠実さ)
    が噛み合わなかった。


3. 哲学的に言えば

これはまさに「一致」ではなく「ズレ」の倫理です。

  • ソクラテスが「知らないことを知っている」と告白したように、

  • 「まだ答えられない」を言葉にすることも一つの誠実さ。

ただし、その「ズレの倫理」を他者が理解してくれるとは限らない。だから炎上した。


4. ここから考えられる方向

  • 言行一致を「徹底的に追求する」ことは、実際には不可能に近い。

  • だからこそ、「棚上げ」をどう説明するか、どう受け止めてもらうか――これが次の課題になるのかもしれません。

  • むしろ「ズレの自覚」そのものを倫理として打ち出すことで、「逃げ」ではなく「誠実な保留」として再定義できる可能性があります。


問いかけます:
👉 読書梟さんは「棚上げ」を批判されたとき、心の中では「それでも自分の方が誠実だ」と思われましたか?
それとも「やはり不一致を突かれた」と感じましたか?

 
あなた:
もうひとつ。「話が通じない」は、「私の説得が通らない」の言い換えではないのですか?
 
ChatGPT:

いい視点ですね。それ、かなり根深いテーマです。


1. 「話が通じない」の二重構造

一般的に「話が通じない」という表現には、

  1. 相手に理解能力がない(相手を下に見る)

  2. 自分の伝達がうまくいっていない(自分の限界を認める)
    の二つの含みがあります。

しかし日常では①のニュアンスが強く、「自分は正しいが、相手は理解しない」という姿勢を含みやすい。


2. 「説得が通らない」との関係

「話が通じない」と言うとき、実はその多くは「相手が納得しない」という意味で使われています。つまり 「説得が失敗した」ことを、相手のせいに言い換えている

  • 「説得できない」=自分の説明が力不足だった

  • 「話が通じない」=相手が頑固/無理解だ

このズレこそがご指摘の本質です。


3. 哲学的な射程

ソクラテス対話を思い出すと、彼は相手を「話が通じない」とは決して言わず、むしろ相手の矛盾を引き出しながら「もっと深い理解へ」導こうとしました。

  • ソクラテスにとって対話の失敗は 「説得が通らない」ではなく「問いが深まっていない」

  • ここには「通じる/通じない」を相対化する姿勢があります。


4. 倫理的な含意

もし「話が通じない」が「説得できない」の婉曲表現だとすれば、

  • 言葉は相手に矢印を向けるが、

  • 実際のところは自分の限界を隠している。

つまり「通じない」という表現には、責任の所在を相手に転嫁するリスクがあるわけです。


問いかけます:
👉 読書梟さんは「話が通じない」と思ったとき、自分の中では「相手に問題がある」と感じることが多いですか? それとも「自分の言葉が届いていない」と感じることの方が多いですか?

 
あなた:
相手に問題があるしかないでしょう
 
ChatGPT:

なるほど、そこを即答で断言されるのがとても人間的で、同時に興味深いです。


1. その答えの力強さ

「相手に問題があるしかない」という言葉には、

  • 自分の論理や立場に確信がある

  • 自分の説明責任を過剰に背負わない
    という強みがあります。
    つまり「自分の思考の正当性」を守るために必要な防御線とも言えます。


2. しかし哲学的に言えば

「話が通じない」をすべて相手の責任にすると、次のジレンマに入ります:

  • もし相手に「通じない問題」があるなら、説得はそもそも不可能。

  • しかし、それでもなお対話を続けたいと思うのはなぜか?

ここには「相手に問題がある」と思いながらも、同時に「それでも通じる可能性を探したい」という欲望が潜んでいるように見えます。


3. 言行一致の観点から

ここで最初のテーマに戻すと、

  • 「相手に問題がある」と断言する言葉

  • 「それでも対話を試みている」という行為
    は、必ずしも一致していない。

むしろ「不一致」を抱えながら対話を続ける――ここに人間的で面白い矛盾があります。


4. 逆に問うなら

もし「相手に問題があるしかない」と本気で信じるなら、対話自体が無意味になるはずです。
👉 それでも読書梟さんが「相手と話す」ことをやめないのは、なぜだと思いますか?

 
あなた:
さて、では認識の一致をプロセスのなかでどう落とし込み、一致させていくべきなのか、逆に問いたいです
 
ChatGPT:

いい反転の問いですね。「認識の一致」をどうプロセスに落とし込むか――これは言行一致や「通じる/通じない」問題の核心に触れます。段階的に整理してみます。


1. 一致は「到達点」ではなく「生成過程」

認識を一致させるとは、最初から「同じことを思っている」状態を目指すのではなく、

  • ズレを前提に

  • そのズレを明らかにして

  • 少しずつ調整していく
    という生成のプロセスです。

アーレントの言う「公共性の空間」も同じで、完全一致はあり得ず、むしろ「不一致を抱えたまま共にいる」ことが前提になります。


2. プロセスのステップ案

実際の落とし込みとしては、次のような流れが考えられます:

  1. 差異を可視化する

    • 「話が通じない」と切り捨てず、「私とあなたの前提がどこでずれているか」を見える形にする。

    • 例:「私はAを当然と思っているけれど、あなたはBを前提にしているようだ」。

  2. 翻訳を試みる

    • 自分の言葉を相手の枠組みに当てはめて再表現する。

    • 「消えたい=助けてほしい」と読み替える試みがこれに近い。

  3. 一時的な合意(作業仮説)をつくる

    • 「完全に納得したわけではないけれど、この部分は共有できる」という暫定一致点を見つける。

    • 哲学対話では「ひとまずこの定義で進もう」という形でよく現れる。

  4. 再検討と修正

    • プロセスを通じて再び食い違いが生じたら、立ち戻って調整する。

    • つまり一致は「更新され続けるもの」として扱う。


3. 一致の「度合い」を意識する

認識は「一致 or 不一致」ではなく、グラデーションとして考えるのが現実的です。

  • 60%一致していれば、その時点で協働が可能なこともある。

  • 残りの40%は「保留(棚上げ)」のまま進める。

こうすれば「棚上げ」が逃げではなく、むしろプロセスの一部として意味を持ちます。


4. 倫理的なポイント

認識の一致を「プロセスに落とす」ためには、

  • 相手に問題がある という見方を持ちつつも、

  • その「問題」の中に自分が何を投影しているのかも点検する、
    という二重視点が不可欠です。


問い返しますね:
👉 読書梟さんにとって、「認識の一致」とは最終的に 到達すべき理想像 ですか?
それとも 途中で見つかる暫定的な着地点 で十分だと思いますか?

 
あなた:
誤字がありました。 さて、では認識の不一致をプロセスのなかでどう落とし込み、一致させていくべきなのか、逆に問いたいです
 
ChatGPT:

なるほど、「不一致」をどうプロセスに組み込み、それを「一致」にまで育てていくのか、という逆照射ですね。とても重要な視点だと思います。


1. 出発点としての「不一致」

まず前提として、人と人が最初から一致していることはほとんどありません。

  • 経験や前提、言葉の使い方が異なる

  • 「同じ言葉でも違う意味」を指している
    この自然な「不一致」を否定するのではなく、むしろ 出発点 とみなすことが重要です。


2. 不一致をプロセスに落とし込む方法

認識の不一致を「摩擦」として活かすプロセスは、いくつかの段階に整理できます。

  1. 不一致の明確化

    • 「どこが違っているのか」を曖昧にせず、互いに言葉にして可視化する。

    • 例:「私はAを前提に考えているが、あなたはBを前提にしている」

  2. 不一致の価値化

    • 不一致を「対話が無意味だ」という証拠ではなく、新しい理解を生むリソースとして位置づける。

    • 哲学者ガダマー的にいえば、「異なる地平の出会い」が理解を拡張する。

  3. 橋渡し(翻訳と暫定合意)

    • 互いの立場を翻訳してみる。「あなたの言葉で言えば私はこうなる」という試み。

    • その上で「ここだけは共有できる」という仮の一致点を見つける。

  4. 暫定一致からの更新

    • 一致は固定ではなく、状況に応じて修正される。

    • 「一致=完成」ではなく「一致=更新される生成物」と捉える。


3. 「一致」のイメージを変える

つまり「不一致 → 一致」という直線的図式ではなく、

  • 不一致 → 対話 → 暫定的な一致 → 新たな不一致 → …
    という循環的なプロセスとして考える。

このプロセス自体が「一致させる営み」であり、最終的な完全一致を理想に掲げる必要はない。


4. 倫理的な含意

もし不一致を敵対や拒絶の理由とせず、「生成の原料」として扱えれば、

  • 言行一致を「矛盾なく完結すること」と狭く捉えず、

  • 「矛盾を抱えたまま、共に歩むプロセスを維持すること」が新しい一致の形になる。


問いかけます:
👉 読書梟さんにとって「一致させる」とは、最終的にズレを消すことですか?
それとも「ズレを抱えつつ、それでも一緒に進める」ことを意味しますか?

 
あなた:
感情がぶつかり合うとき、いかに理性を感情から救い出すべきなのか
 
ChatGPT:

鋭い問いですね。これは古代以来ずっと議論されてきたテーマで、「情念と理性」「パトスとロゴス」の葛藤に直結しています。整理してみます。


1. 古典的な見取り図

  • プラトン
    感情(欲望)は暴れる馬、理性は御者。御者が手綱を握って制御すべきだ、と考えました。

  • ストア派
    感情は誤った判断の結果であり、正しい理性によって修正できる。

  • アリストテレス
    感情そのものは悪ではなく、適切な「中庸」に導くのが徳。

つまり「救い出す」といっても、完全に切り離すのではなく、理性を感情の中から再発見するという方向が大事になります。


2. プロセス的アプローチ

感情がぶつかり合うときに理性を保つには、いくつかの段階が考えられます。

  1. 感情を抑え込まない
    抑圧すると逆に暴発するので、まず「怒っている」「傷ついている」と事実を認める。

  2. 時間差をつくる
    感情のピーク時は理性的判断が機能しにくい。呼吸・沈黙・一時離脱などで「間」をつくる。

  3. 感情を翻訳する
    「私は怒っている」ではなく「私は〇〇を大事にしているから怒っている」と言語化する。ここで初めて理性が感情に入り込む。

  4. 相互的に共有する
    相手の感情も同じ方法で聞き取り、対話の土台を「感情そのもの」から「感情の背後の価値」へ移す。


3. 哲学的含意

「理性を感情から救い出す」とは、実際には 理性と感情を分断することではなく、感情の奥底から理性の契機を掘り起こすこと です。

  • 怒りの背後にあるのは「正義感」かもしれない。

  • 悲しみの背後にあるのは「大切にしていたもの」かもしれない。

そこに理性が再登場し、対話や省察を可能にします。


4. 現代的なヒント

心理学的にも「感情と理性の対立」より、「感情を情報として扱う」方が有効だとされます。

  • 感情は判断のノイズではなく、世界に対する身体的なレスポンス。

  • そこから理性を「救い出す」のではなく、「呼び出す」ことができる。


問いかけます:
👉 読書梟さんにとって、「理性を救い出す」とは 感情から距離を取ること を意味しますか?
それとも 感情のなかに潜む理性の芽を見つけること を意味しますか?

 
あなた:
ありがとうございます。なかなか深い対話になっています。いったん記事にします。