つづきを展開
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「なぜ人は他者の『必要』を自分の問題として引き受けられないのか?」。この問いを抱えたまま、今日も本を開いた。出会った言葉が次々に、この問いを巡って私の思考に火をつける。
キーツの言葉がその最初の火種だった。「哲学は天使の翼を切り取る」。科学的世界観が世界から謎を奪い去るという批判の文脈で引用されていたが、私はこれを別の角度から読んでしまった。他者の「必要」に触れたとき、私たちはどこかでその翼を切り落としてはいないだろうか。つまり、必要を自分の問題に引き寄せる代わりに、理屈で合理化し、制度や数字で管理してしまう。そのとき他者は、謎や生身を持った存在ではなく、処理すべき事例になってしまう。
相対主義についての疑念も頭をよぎる。「相対主義なんて言い出したら『なんでもあり』になりやしないだろうか?」という自分のメモは、普遍的な価値を求める気持ちの裏返しだ。相対主義が他者を「各々勝手にすればいい」と突き放すなら、ポリティカル・コレクトネスは逆に「誰もが守るべき価値」を押しつけるように響く。どちらも一面の真実を持つが、そのあいだに他者の「必要」は宙づりにされる。相対主義は他者を遠ざけ、普遍主義は他者を型にはめる。だからこそ「必要」はしばしば取りこぼされるのだ。
「意見が分かれるのは、どこまで是正すればよいか、そのためにどんな手段をとるべきかという点だ」。格差是正をめぐる一文は、問いを具体的な社会的次元に下ろしてくれる。誰もが格差の存在を認めながら、是正の度合いと手段をめぐって対立する。右派はそもそも「格差是正」を最重要課題とすること自体を嫌う。ここにはすでに、「必要」を自分の問題としては見ない態度がある。必要は「他人のもの」であり、それを引き受けることは「負担」である、という意識だ。
ルカーチの警告が重なる。「生を完全に把握することはできない」。私たちは概念や制度で生の複雑さを掴もうとするが、それは常にすり抜けていく。他者の必要を制度で処理しようとするときも同じだ。必要は数値化され、統計に組み込まれるが、その背後にいる顔や声は不可避的に消えていく。ブロッホが言うように「小説の存在理由は、小説だけが見出せることを見出すこと」にあるのなら、文学は制度の網目から零れ落ちる他者の必要を拾い上げる最後の場なのかもしれない。
しかし、現実はもっと冷徹だ。「人間の生活が、所得と消費にますます市場依存し、必要が満たされない」。この状況で「必要」は税によって皆で支え合うべきだ、と本は説く。対して「欲望」は市場に委ねればいい。この区別は理屈として明晰だが、人々の意識の中では「必要」でさえ市場に投げ込まれてしまう。生活保護を受ける人に「怠けている」と烙印を押す声が典型だ。必要を自分の問題とせず、むしろ欲望と同列に扱って切り捨てる。その構造が、他者の苦しみを「自己責任」と言い換える土壌になっている。
日本では公務員数が先進国で最低水準であるにもかかわらず、「税の無駄遣い」を糾弾する声が絶えない。税を払っても「必要」が満たされていると感じられないからだという。しかし、この不満はしばしば誤った方向に向かい、社会保障を「無駄の象徴」として攻撃する。結果として「増加する社会保障こそが無駄探しのターゲットと化している」。こうして必要を担保する仕組みそのものが壊されていく。
「必要」を満たさない社会は、ねたみを伴う不公平感と、恥の意識を伴う自己責任圧力に覆われる。他者の困窮は「助けるべきもの」ではなく「蔑むべきもの」として受け止められる。人々の相互不信は強まり、結果的に税の分かち合いそのものが拒否される。宮台真司の言う「感情の劣化」は、この相互不信の拡大と直結しているのだろう。つまり、人が他者の必要を引き受けないのは、感情そのものが摩耗しているからだ。
福祉現場の声も胸に刺さる。ソーシャルワーカー自身が社会の構造や資本主義の仕組みに目を向けなければ、権利擁護には至らないという指摘。もし「この社会自体がおかしい」と思えなければ、必要を声に出して主張する主体は現れない。ここでもまた、必要は沈黙に追いやられる。必要が引き受けられないのは、声にならないからだ。
介護の人材不足についての考察も、この問いに接続している。労基法を違反する環境と低賃金が人材不足を生んでいる。仮に賃金を上げれば参入は増えるが、利益目的の企業が増えればサービスの質は低下する。つまり、必要を満たすはずの制度設計が、かえって必要を裏切る可能性をはらんでいる。必要を自分の問題に引き受けるどころか、必要を利用して利益を得る構造ができてしまう。
障害者理解をめぐる研究も衝撃だった。非障害者に疑似体験をさせると、かえってスティグマが強化されるという。必要を理解するつもりの行為が、逆に差別を固定化する。ここでもまた、他者の必要は自分の問題としては引き受けられない。むしろ「体験して分かったつもり」になることで、必要は見えなくなるのだ。
では、どうすれば引き受けられるのか。私は自分にできることを考える。仕事にもっと情熱を注ぐこと。本で学び、ブログで発信し、問いを投げかけること。もちろんそれだけで社会は変わらない。しかし、必要を「他人事」にしない第一歩は、自分自身の問題意識を絶やさないことにあるはずだ。
問いを繰り返す。「なぜ人は他者の『必要』を自分の問題として引き受けられないのか?」。その答えは、相対主義と普遍主義の狭間に、制度と感情の亀裂に、利益と倫理のねじれに、そして私自身の怠慢に潜んでいる。答えは一つではない。けれど、この問いを抱え続けること自体が、他者の必要に少しでも近づく試みなのだろう。翼を切られた天使が再び飛ぶ日を信じながら。