はてなブログ大学文学部

読書日記と哲学がメインです(毎日更新)

読書日記を2000回書いて失ったもの/得たもの(増補版)

読書梟

 


前回、「読書日記を2000回書いてわかった。読書はだいたい体調である」という記事を出したら、ありがたいことにアクセスが伸びた。
つまり何が起きたかというと、世の中には「ちゃんとした読書」に疲れている人が、思ったよりたくさんいる、ということである。
読書はいつの間にか、立派な趣味にされがちだ。
読書は教養であるべき。読書は人生を良くするべき。読書は理解できるべき。読書は要約できるべき。読書は成果が出るべき。
その「べき」を背負った瞬間、読書はしんどくなる。特に庶民はしんどくなる。仕事、家事、体調、金、スマホ、睡眠不足。生活の砂袋を背負った上に、読書でまで“立派”を求めたら、そりゃ潰れる。
だから私はもう一度、同じ合言葉を置く。この記事の背骨である。
形式にとって誤配であれ。
今回は増補版として、読書日記を2000回書いて「失ったもの」と「得たもの」を、なるべく正直に並べる。
こういう話は、得たものだけ語ると胡散臭い。失ったものだけ語ると拗れる。両方書くと、ようやく生活の温度になる。つまり庶民派になる。
まず、失ったもの(読書日記は普通に何かを奪う)
失ったもの①:時間(これはガチ)
読書日記を続けると、まず時間が消える。
読書に時間が取られるのは当たり前として、問題はその後である。書く時間がもう一回発生する。しかも書き始めると、なぜか余計なことを書きたくなる。余計なことの方が本質っぽいから困る。
結果、読書日記は「読書の記録」の顔をしながら、生活の時間を容赦なく吸い取っていく。

 


しかも読書日記は、やればやるほど上手くなるので、さらに時間が溶ける。「もう少し整えたい」「もう少しオチを」「もう少し引用を」。
そうやって、気づけば夜が終わる。睡眠が削れる。翌日が死ぬ。読書が体調になる。読書が仕事の敵になる。読書が読書を殺す。
ここまで来ると、もはや趣味というより自家製のブラック労働である。
失ったもの②:目と肩(読書は健康にいい、は半分嘘である)
読書=健康的、というイメージがある。しかし、姿勢の悪い読書は普通に身体を壊す。
さらに読書日記を書くことで、スマホやPCを凝視する時間が増える。目が乾く。肩が固まる。腰が死ぬ。
「知性の営み」と言いながら、やっていることは眼球酷使である。
読書で偉くなろうとして、身体が先に壊れるのは最悪である。
失ったもの③:読書の“無邪気さ”
読書日記を公開していると、読書が「体験」から「成果物」に寄っていく瞬間がある。
読む→味わう→終わり、ではなくなる。読む→書く→反応を見る→次はもっと…となる。
これは良い面もある。しかし悪い面として、読書の無邪気さが減る。
「この本、面白かった!」の直後に「さて、どう書こう?」が割り込む。
読書が“編集対象”になってしまう。
ここでまた、形式が忍び寄る。
「よく書けたか」「刺さったか」「伸びたか」――読書が数字に回収される。
前回の記事で私は“数字の暴力”を味方につけたが、数字は麻薬でもある。うまく使わないと、読書が数字の奴隷になる。
失ったもの④:比較の平穏(読書界隈は意外と戦場)
読書日記を続けていると、他人の読書も見える。見えすぎる。
年間◯冊、難解書をスラスラ要約、引用が綺麗、論理が強い、人生が改善した、読書で成功した――。
そういう投稿が視界に入ると、自分の読書が不安になる。「私の読書は薄いのでは?」と。
これが、地味に精神を削る。
読書をしているのに、自己評価が下がる。読書が心を救うどころか、心を殴る。
だから読書日記は、放っておくと簡単に“形式の戦場”になる。
ここで戦うのは、庶民にとってコスパが悪い。勝っても疲れる。負けたらもっと疲れる。
失ったもの⑤:積読を「許す力」(積読が罪になると地獄)
読書日記を続けていると、積読が増える。増えるだけならいい。しかし、読書日記が「読んだ証拠」になると、積読が「やってない証拠」になる。
すると積読が罪悪感のタンクになる。
本棚を見るたびに「未処理案件」が目に入る。これはメンタルに悪い。
読書のはずが、タスク管理になってしまう。
次に、得たもの(ここからが本当に大きい)


得たもの①:読書の再開力(読めない日から戻ってくる技術)
2000回書いていちばん得たのはこれである。
読書日記の真価は、読書の成果を残すことではなく、読書を再開させることにある。
読めない日がある。普通にある。
疲れている日、心が荒れている日、スマホに負ける日。
そのときに「読めなかった」で終わると、読書は途切れる。途切れると再開が重い。
しかし読書日記があると、読めない日も「今日のログ」として残せる。
「読めなかった」を書ける場所があると、不思議と次の日に戻ってこられる。
読書日記は、読書の結果ではなく、読書のリスタートボタンである。


得たもの②:生活の輪郭(読書日記は“自己観察の装置”になる)
読書日記は、本の記録であると同時に、自分の状態の記録になる。
どんな日に何を読めたか。どんな日に何が読めなかったか。
これが積み上がると、自分の生活の癖が見えてくる。
疲れている日は物語が入る
焦っている日は自己啓発を買いがち
不安な日は哲学に逃げたくなる
機嫌がいい日は難しい本が読める
こういう傾向が、データではなく体感として分かる。
つまり読書日記は、自己啓発よりよほど自分のことを教えてくれる。


得たもの③:誤配の肯定(“ちゃんとしなきゃ教”から少し離れられる)
私が言う「形式にとって誤配であれ」は、乱暴に言えばこういう意味である。
読書を、社会が要求する“立派な形式”に回収しすぎない。
役に立つ・理解できる・要約できる・語れる・成果が出る――そういう型に入らない読書を、ちゃんと肯定する。
2000回やると、これは思想ではなく生活防衛だと分かる。
型に合わせると読書が死ぬ。
型からはみ出すと読書が生きる。
だから、誤配を許す。
「よくわからん」「刺さった」「腹が立った」「眠い」「今日は無理」――そういう俗なログが、読書を生かす。
誤配は制度にとってはミスだが、生活にとっては救いである。
読書日記は、その救いを保存できる。


得たもの④:言葉のストック(人生の途中で“効いてくる”)
読書日記を続けると、引用や言い回しが溜まる。
だが重要なのは、単なる知識ではなく、自分の生活と結びついた言葉が溜まることだ。
「この一行、なぜか忘れられない」
「この言葉、あの時の自分に刺さった」
そういう言葉は、半年後、一年後に急に役に立つ。
読書は即効薬ではない。むしろ遅効性の毒にも薬にもなる。
読書日記は、その遅効性を生かす貯蔵庫になる。
人生が荒れたとき、過去の自分が拾ってきた言葉に助けられることがある。これは割と本当である。


得たもの⑤:批評眼(“自分は何に反応する人間か”が分かる)
2000回書いていると、必ず偏りが出る。
好きなテーマ、嫌いな語り口、反射的に拒否する論理、妙に引っかかる表現。
この偏りが見えると、自分がどういう人間かが分かる。

 


「私はこの手の成功物語が苦手なんだな」
「私はこの手の断言が好きなんだな」
「私はこの言い方に怒るんだな」
こういう反応の地図ができる。

 


読書日記は、他人を理解する前に、自分の癖を暴く装置である。だからちょっと怖い。だが強い。
得たもの⑥:孤独の処理(読書日記は“ひとりの会話”になる)
これは庶民派として正直に書く。
読書日記は、孤独に効く。
人間関係がうまくいかないとき、誰にも話せないとき、気持ちが散らかっているとき、本の言葉を媒介にして自分と会話できる。

 


「私は何に怒っているのか」
「私は何を怖れているのか」
「私は何を欲しているのか」
そういう問いが立つ。

 


読書日記は、孤独をゼロにはしないが、孤独を“処理できる形”にしてくれる。
失ったもの/得たものを統合すると、結局こうなる
2000回書いて分かったのは、読書日記は「立派なアウトプット」ではない、ということだ。
読書日記は、もっと生々しい。もっと俗でいい。もっと生活でいい。
読書日記は、読書を成果にするための道具ではなく、生活の中で読書を生かすための道具である。
だから私は言う。

 


読書日記は、上手く書こうとすると死ぬ。
読書日記は、賢く書こうとすると続かない。
読書日記は、「今日はだめだ」を書けるときにだけ続く。

 


読書日記は、読書の勝利宣言ではなく、読書の敗北ログであっていい。敗北ログの方が、次の日を生むからである。
そして最後に、前回と同じ結論に戻る。
読書はだいたい体調である。
体調は変わる。生活は揺れる。
揺れるものに、いつも同じ形式を押し付けると壊れる。
だから形式を緩める。誤配を許す。
誤配を許した読書だけが、しぶとく続く。
しぶとく続いた読書だけが、人生の途中であなたを助ける。
さて、あなたは読書を「どんな形式」に回収しようとして疲れているのだろうか?