参考記事
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答え:制度が「知りたい」という欲望を「やらされる義務」に変えてしまうから
学校とは、本来「学ぶ場」であるはずなのに、そこで机に座ると不思議と勉強の意欲が薄れていく。自宅や図書館で本を開くときのあの没入感が、教室の四角い空間に足を踏み入れた瞬間、霧のように消えてしまう。誰しも一度は経験したことがあるこの感覚は、なぜ生まれるのだろうか。
第一に、勉強が「内発的な営み」から「制度的な義務」へと変質するからだ。子どもは本来、知らないことを知ることに喜びを覚える。昆虫の名前、恐竜の種類、星座の形……。ところが学校に入ると、その関心の矛先が外部から矯正され、点数や進級といった制度の尺度に回収される。学ぶことが「私の欲望」から「他人に認められるための行為」へと置き換わった瞬間、知的好奇心は制度の枠に縛られ、意欲はしぼんでいく。
第二に、学校という場は「均質化」の圧力が強い。人はそれぞれ異なる速度と深さで理解を進める。だが教室では一つのペースに合わせられる。早く理解しても先へ進めず、遅れると置いていかれる。結果として「待たされる退屈」と「追い立てられる焦燥」の両方が交互に訪れる。勉強そのものが退屈なのではなく、このペース配分の不一致こそが、学びを億劫にする。
第三に、評価の視線が常に付きまとうことも大きい。テストや通知表は、知識を測る道具であると同時に、人間を序列化する制度装置だ。「この問題を解けるかどうか」で、能力どころか人格までもが判定される。ここで生まれるのは、純粋な好奇心ではなく「失敗への恐怖」だ。知らないことを知る楽しみは、「知らないと馬鹿にされる」という不安に塗りつぶされてしまう。知を探究するエネルギーは、本来「知らないことを知りたい」という前向きな欲望から生まれるのに、学校はそれを「知らないことを隠したい」という後ろ向きな感情へとすり替えてしまう。
第四に、学校は「形式」と「内容」のズレを抱えている。教科書の内容はしばしば「実生活」と断絶しており、生徒の世界に直結しない。「なぜ三角関数を学ぶのか」「なぜ古文を読むのか」——この問いに明快に答えられる教師は少ない。制度としての「学習指導要領」によって科目が並べられ、進度が決められている以上、教師自身もその必然性を語るのに苦しむ。ここで起きるのは、「意味を理解する前に形式を覚えろ」という逆転だ。意味が見えないまま形式だけを押し付けられれば、生徒の心は自然と離れていく。
第五に、学校の「空間」そのものが勉強を阻害している側面もある。窓の外の空の青さ、机と椅子の硬さ、チャイムの音。これらは一見すると中立的だが、実際には「監視」と「規律」を支える道具となっている。ベルが鳴れば移動し、机に座り直し、黒板に向かう。身体は常に外部のリズムに従属させられる。そのとき「自分の意志で学んでいる」という感覚は希薄になり、「やらされている」感覚が強調される。学ぶことが外部からの命令に見えてしまえば、心の中に自然と反発が芽生える。
第六に、学校教育が「競争」を前提としていることも無視できない。成績は順位づけされ、進路は偏差値に基づいて割り振られる。学びが「他者を出し抜く手段」に転じると、知識は道具化され、そこから得られる喜びは消えてしまう。知識は本来「世界とつながる回路」であるはずなのに、学校では「他者と比較するための得点」に矮小化される。比較されることでモチベーションが上がる人もいるが、多くの人にとっては「負けるかもしれない」という不安の方が強く働き、結果として勉強を避ける方向へと傾いていく。
第七に、学校の「目的」が曖昧になっていることも原因のひとつだ。本来の教育の目的は「人を育てること」だが、現代の学校は「社会に適応させること」と「試験で合格させること」の狭間で揺れている。理想を掲げれば現場の疲弊を招き、現実に即せば生徒の学びが形骸化する。このねじれは、生徒にも敏感に伝わる。「先生は本当にこの授業が大事だと思っているのか」という疑念は、すぐにやる気の低下として表れる。
さらに言えば、学校教育は「問い」よりも「答え」を重視する。試験の形式がそうである以上、教室では「正解のある問い」が繰り返される。しかし実際の学問は「問いを立てること」から始まる。問いのない知識は、ただの情報にすぎない。生徒が「なぜこの学びをするのか」を問う余地を奪われれば、勉強は無意味な作業として映る。
こうして並べてみると、「学校に行くと勉強する気が失せる」のは単なる心理的な問題ではなく、制度・空間・評価・目的・方法といった構造そのものに根ざしていることがわかる。学校は「学ぶための場」であるはずなのに、その構造が「学びを阻害する要因」として機能してしまうという逆説。これは単なる偶然ではなく、近代教育制度の宿命といえるかもしれない。
では、どうすればよいのか。学校をなくせばいいのか。あるいは、自由学習だけに委ねればいいのか。答えはそれほど単純ではない。学校は確かに勉強の意欲を削ぐ場でもあるが、同時に「他者との出会い」「社会性の獲得」「共通の基盤形成」という意味では欠かせない。問題は「学校にすべてを委ねすぎること」だろう。勉強の意欲を完全に学校に依存させてしまうと、その構造的欠陥が直撃する。だが、学校の外に「学びの回路」を持っている人は、むしろ学校を相対化し、制度の内外を行き来しながら意欲を維持できる。
結局のところ、学校は「勉強をする場」であると同時に、「勉強を嫌いになる場」でもある。この二面性を理解した上で、自分なりの学びのスタイルを外に確保できるかどうかが鍵となる。
最後に・・・
もし学校が「勉強の意欲を失わせる装置」であるとするならば、私たちはその中で、どのように「勉強の意欲を取り戻す工夫」を見つければよいのだろうか?