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出会いの扉?自動ドアじゃなかった件

婚活を始めるとき、多くの人は「扉」をイメージするのではないか。そこには何かしらの仕掛けがあるはずで、たとえば百貨店の入り口のように自動ドアが用意されていて、近づけば静かに開いてくれる。出会いの扉とは、努力したり、歩み寄ったりすれば自動的に反応する仕組みだと、どこかで思ってしまう。だが現実は、どうだろう。近づいても、手を振っても、ジャンプしても、センサーは作動しない。私は50件申し込み、成果ゼロ。その時、ふと気づいた。「この扉、そもそも自動じゃなかったのでは?」と。
婚活アドバイザーはよく言う。「行動量が大事です」「数を打てば必ず当たります」。なるほど、射的屋のような響きで心強い。しかし私は50発撃って、一度も的にかすらなかった。アドバイザーはさらに続ける。「大丈夫です、それも経験値です」。この言葉を聞くと、私はゲームセンターでコインを吸い取られながら「次はきっと」と思い込む小学生に戻る。経験値とは、いつ通貨に変換されるのだろう。誰がレベルアップのファンファーレを鳴らしてくれるのだろう。
むしろ、婚活市場の扉は「従業員専用」や「非常口」ばかりだ。叩けば警報が鳴り、押せば「関係者以外立入禁止」の札が現れる。アドバイザーは「押しが足りませんね」と励ますが、問題は扉の仕様そのものなのだ。彼らは仕様を説明するよりも、私に力いっぱい押させることに熱心である。もはや筋トレと変わらない。扉は開かないが、上腕二頭筋は鍛えられている。果たしてそれは本望か。
アドバイザーの話を聞いていると、人生の扉は「努力型手動式」だと説かれる。彼ら曰く、「自分で引くこと」「相手に気を配ること」「笑顔を絶やさぬこと」。それはもっともらしいが、笑顔を絶やさず50連敗するほど消耗する作業は、ほとんど修行に近い。いっそ「婚活道場」と名付ければ潔い。私は今や、入門からしばらくの新弟子であり、何度投げられても畳に頭を打ちながら「ハイ、ありがとうございました」と声を出す修行僧の気分である。
「婚活は鏡です」とアドバイザーは言う。あなたの弱点や改善点がすべて浮き彫りになりますよ、と。だが鏡に映る自分は、日々やつれていく姿ばかりだ。改善点を直そうと努力しても、そもそも鏡が歪んでいるのではないか、と疑念が湧く。鏡よ鏡、この世で一番成果ゼロの男は誰? 答えは言うまでもなく、目の前の自分だ。だが、鏡の中の私に相談料は請求されない。アドバイザーだけが律儀に請求書を届けてくれる。
ここまで来ると、「扉」という比喩はもはや甘すぎる。出会いの扉は、もとから建築されていない空間かもしれない。あるいは、裏口が存在するが私の地図には印刷されていないだけかもしれない。つまり、アドバイザーが言う「行動量」とは、存在しない扉の前で延々とタップダンスを踊ることなのだろう。センサーは作動しないが、踊りのフォームだけは洗練されていく。だが果たして、その踊りを見て拍手する観客はいるのだろうか。
50件申し込んでゼロ。数字は冷徹だが、その冷徹さがかえって私を笑わせる。ゼロは潔い。半端な「1」よりも、ゼロの方が哲学的である。ゼロは虚無だが、虚無ゆえに可能性も無限にある――などとポジティブに言い換えるのも、婚活アドバイザー的な口上かもしれない。だが本音を言えば、ゼロはただのゼロだ。ここからどう言葉を捻ろうとも、空腹が満たされることはない。50皿頼んで、料理が一つも届かない居酒屋のようなものだ。料理の写真だけ見せられ、「次は必ず届きますよ」と店員に励まされる。その店に再訪するかどうか、常識的には答えは明らかだろう。
私はもはや、この扉の前で正座している。開かぬ自動ドアに頭を下げ、祈りを捧げ、アドバイザーの笑顔に「なるほどですね」と相槌を打つ。ここまで来れば、茶化さずにはやっていられない。むしろ茶化すことこそが、精神の防衛なのだ。真剣に信じれば信じるほど、成果ゼロの数字に押し潰される。だからこそ「自動ドアじゃなかった件」と笑い飛ばす。笑いは、自動ドアよりも確実に開く。人間の内側から、勝手に。
それにしても、出会いの扉とは何なのか。自動ドアではないとすれば、回転ドアなのか。あるいは、誰かの手で開かれるまで決して動かない観音開きなのか。もしかすると、扉ではなく「壁」だったのかもしれない。壁だと気づけば、扉を探す必要すらなくなる。壁に絵を描けば、それは窓にもなるし、出口にもなる。出会いの幻想を「扉」として与え続ける婚活アドバイザーの言葉は、その壁をますます厚くするのかもしれない。だが私は、その壁に落書きする自由くらいは持っていたい。
そう考えると、ゼロという成果にも小さな意味がある。ゼロは、すべてを白紙に戻す契機だ。ゼロだからこそ、壁に新しい落書きを描ける。ゼロだからこそ、「自動じゃない扉」という発見にたどり着けた。アドバイザーが用意した説教やマニュアルよりも、この茶化しのほうがよほど誠実な気がする。自分に対しても、読者に対しても。
出会いの扉は、もしかすると誰かが「そこにあるよ」と示してくれる瞬間にだけ、扉らしく見えるのだろう。センサーもなく、自動でもなく、単なる壁の一部。それを扉と呼ぶかどうかは、私たちの言葉次第だ。

 

最後に・・・

あなたにとって「出会いの扉」とは、本当に存在しているのだろうか。それとも、今も私と同じく、開かぬ自動ドアの前で立ち尽くしているのだろうか。

 

 

 

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