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逆説大全・読書編──なぜ効率的に読むと読めなくなるのか?

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答え:読書を最適化すると、言葉が「経験」から切り離され、文字通り「死んだ知識」になるから。

 

 

なぜ本を読むのか。知識を得るためだ、と多くの人は答えるだろう。スキルを磨くため、資格試験に合格するため、仕事で役立てるため。つまり目的だ。だが、目的化された読書ほど不毛なものはない。効率的に本を読もうとすればするほど、本から得られるものは薄っぺらになり、やがて何も残らなくなる。逆説だが、効率的に読むと読めなくなる。

速読という幻想がある。文字を「目でなぞる」スピードを上げ、内容を「要点化」し、すぐに理解した気になる。だが理解とは時間ではなく、沈殿だ。速読が生むのは「情報の移送」であり、「思考の熟成」ではない。酒を発酵させずに水で薄めて飲むようなものだ。確かに量は増えるが、酔いも味もない。速読で増えるのは「読んだ気」だけであり、読書ではない。

なぜ速読は人を無知にするのか。読むとは、言葉を咀嚼することだ。嚙んで、飲み込んで、消化し、血肉に変えることだ。だが速読は咀嚼を拒む。丸呑みにすれば、腹は膨れるが栄養は吸収されない。むしろ胃を痛め、吐き出すだけだ。知識は「栄養」ではなく「異物」になる。速読をすればするほど、本は「自分の言葉」にはならない。むしろ「借り物の言葉」に埋もれていく。結果として、自分の思考は空洞化し、無知の確信だけが肥大する。

もし効率的に速読したら、なぜ読めなくなるのか?──それは「読む」が「処理」に変わるからだ。処理は終わるが、読むことは終わらない。本を閉じたあとに残る余韻、疑問、苛立ち。それらが「読む」だ。効率的に処理された本には余韻がない。疑問も苛立ちもない。あるのは「チェック済み」という記録だけだ。つまり、本を読んだのではなく、本を通過しただけである。

次に自己啓発書を見てみよう。効率化の究極形態だ。すべては「目的」のために整理され、「10の習慣」「7つの法則」「3つの秘訣」といったフォーマットに押し込まれている。だがこの形式こそ、読書を破壊する。なぜなら読書とは「迷うこと」「脱線すること」「誤配に出会うこと」だからだ。自己啓発書は迷路をあらかじめ地図にしてくれるが、それは迷う自由を奪うことでもある。迷わなければ、発見もない。脱線しなければ、驚きもない。誤配がなければ、成長もない。自己啓発は「成長のマニュアル」を渡すが、それは「成長の不可能性」を保証しているのだ。

もし効率的に自己啓発書を読んだら、なぜ自己が啓発されないのか?──それは「自己」が削ぎ落とされるからだ。自己啓発は自己を否定する。「あなたのままではダメだ」「こう変われ」という命令の連続である。読者は「はい」と答えるしかない。だが「はい」としか言えない自己は、すでに自己ではない。啓発されたのは「自己」ではなく「制度に適応した従属体」だ。制度にとって効率的な人間は増えるが、自分の言葉で生きる人間は減る。

効率的に読むことは、読書を殺す。目的化された読書は、言葉を「ツール」に変え、感情を「不要物」にする。だが、読むとはもともと効率に背を向けた営みだった。ページをめくるたびに立ち止まり、意味の海に沈み込み、時には本を閉じて天井を見上げる。その非効率の中にしか「考える」が生まれない。

ここで思い出すべきは、イリイチの言葉だ。制度が「人間のため」に作られたとき、それは必ず「人間を奪う」制度になる。教育制度が学びを奪い、医療制度が健康を奪ったように、読書の効率化は読書を奪う。速読は「読む自由」を奪い、自己啓発は「考える自由」を奪う。効率化された読書は「読んだことの証明」にはなるが、「考えたことの証明」にはならない。

もし効率的に知識を得たら、なぜ知恵を失うのか?──知識は短期的に効率化できるが、知恵は時間の堆積を必要とするからだ。もし効率的に本を消化したら、なぜ血肉にならないのか?──消化には咀嚼と休息が必要だからだ。もし効率的に名言を集めたら、なぜ空虚になるのか?──名言は体験の裏打ちがなければ、ただのスローガンだからだ。

読書は効率化できない。むしろ非効率でなければならない。遅読、再読、途中放棄、行ったり来たりの逆走。そこにしか意味は芽生えない。本を閉じてから何日も残るざらつき。それが「読む」だ。効率化された読書は、ざらつきを「ノイズ」として削ぎ落とす。だがノイズこそ、意味を生む揺らぎだ。

効率を求める読書は、ついには「生きるための読書」さえ効率化する。「死ぬまでに読みたい100冊」「成功する人が読んでいる本ベスト10」。これは読書を「義務」と「リスト化」に落とし込む。だが、死ぬまでに読みたい本はリストではなく、死ぬまで読んでしまう本だ。成功する人が読んでいる本は、あなたにとっては失敗を生むかもしれない。効率は他人の地図を押し付ける。だが読書は、自分だけの道を開く行為だ。

もし効率的に読書したら、なぜ人生が読めなくなるのか?──それは人生もまた、非効率だからだ。偶然の出会い、寄り道、不毛な時間。それらが織り重なって、人生は物語になる。効率的に読書する人は、効率的に人生を読み飛ばす。だが物語を飛ばした人生に意味は残らない。

逆説大全・読書編──なぜ効率的に読むと読めなくなるのか?
答え:読書を最適化すると、言葉が「経験」から切り離され、文字通り「死んだ知識」になるから。

 

 

最後に問いたい。
あなたが欲しいのは「読んだ数」か?それとも「読んでしまったと言わざるをえない経験」か?

 

 

 

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