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読書日記と哲学がメインです(毎日更新)

やる気ぽいぽ〜い、やめたらええねん



健二の部屋は、敗北の臭気に満ちていた。
布団は干されたこともなく、灰色の曇天をそのまま織り込んだように湿り、壁紙には手垢と煤が斑点のように刻まれていた。彼の机には、コンビニのレシートと半分飲み残したペットボトルが、哀れな戦死者の墓標のように散乱していた。
彼はそこに腰を下ろし、薄笑いを浮かべながら言うのだ。
「やる気が出たら、本気を出す」
それは壮大な宣言のように聞こえる。しかし現実は、戦争に負けた兵士が防空壕の奥で口にする虚ろな勝利宣言と同じであった。勇ましいが、誰も聞いてはいないし、誰も信じてはいなかった。
父は一代で工務店を築いた男である。鉄骨を担ぎ、コンクリートに立ち向かい、汗をそのまま生地に染み込ませた人間だった。彼の言葉は常に簡潔で、余計な装飾を排していた。
「やめたらええねん」
健二がうじうじと言い訳をすると、父は決まってそう吐き捨てた。
それは銃殺命令のように冷徹であり、同時に愛の残骸のようでもあった。父は息子を矯正しようとは思わなかった。ただ、価値のないものを見極め、切り捨てる目を持っていたのである。
母は涙を流した。だがその涙は、息子の将来を案じるものではなかった。むしろ、家庭ごみを週二回に出すように、息子を処分できない不便さに対する嘆息であった。妹は早々に彼を見限り、「お兄ちゃんは人間というより、ただの荷物」と言い残して家を出た。
彼の生活は、薄暗い反復の連続であった。
昼近くに起床し、スマホの中で他人の人生を覗き見する。ゲームの画面に映る英雄たちの武勇伝を追いかけ、動画配信者の冗談に笑い、そして何も生み出さぬまま日を暮らす。夜はコンビニでバイト。だがその仕事すら、やる気のなさは隠しきれなかった。
ある日、店長に呼び出された。
「君、もう来なくていいわ。唐揚げ棒よりも存在感が薄いんや。商品として並べても売れへんやろ」
健二は苦笑した。
「まあ、次探しますから」
だが次は来なかった。履歴書は空白であり、電話帳には連絡を取れる相手がいなかった。彼の人生は、まるで修正液で塗りつぶされたノートのように、真っ白でありながら、かえって汚れていた。
父の言葉が再び脳裏に蘇った。
「やめたらええねん」
今度は怒号でも叱責でもなく、ただの宣告であった。まるで裁判官が死刑を言い渡すように淡々とした響き。父はもう息子を見ていない。健二を人間として数えることすら、やめてしまったのだ。
家族の視線から外れた彼は、街を彷徨うようになった。ショーウィンドウに映る自分の姿は、くたびれた服に猫背の輪郭。まるで古道具屋に置かれた壊れかけの椅子であった。誰も座らない、誰も欲しがらない、ただそこに在るだけの残骸。
「やる気ぽいぽい、やめたらええねん」
彼はある夜、自嘲のようにそう呟いた。
その響きは、もはや彼自身を慰めるものではなく、冷酷な現実をラベリングするものとなっていた。蛍光オレンジの「処分済シール」が人間という商品に貼られるとき、その人はもう社会の棚から外されている。
健二は悟った。意志を持たぬ人間は、既に人間ではない。社会においても、家庭においても、彼の存在は透けていた。会話に割って入っても誰も応じず、声を発しても空気の振動としてしか扱われない。
最後に残ったのは、奇妙な美意識だけだった。
「せめて、格好よく堕ちたい」
彼は机の上を整頓した。散乱したレシートを畳み、埃を払い、飲み残しのペットボトルを並べた。まるで戦場跡に花を供える兵士のように。だが、それを眺める観客はいなかった。
彼の胸に去来したのは、父の横顔であった。無駄な努力を嫌い、効率と実利を愛した男。その男が最後に与えた言葉は「やめたらええねん」。それは健二にとって、遺言であり、また世界の総意であった。
その夜、布団に潜った健二は、暗闇の中で微笑んだ。
彼にとって、人生はもはや冗談であった。壮大に失敗した冗談。舞台に立つ役者がセリフを忘れ、観客が一人もいない中で舞を続けるような、惨めさすら笑える茶番であった。
「やる気が出たら本気を出す」
その言葉は、彼自身にとって最高のブラックジョークとなった。なぜなら、やる気は永遠に来ず、本気を出す場も永遠に訪れなかったからだ。
健二はついに気づいた。
――意志を捨てた人間は、生きていても既に死んでいる。
父の声が再び、深い夢の底から聞こえてくる。
「やめたらええねん」
それは断罪であると同時に、赦しでもあった。
やめることこそが、彼に許された唯一の選択であったのだ。
終幕
やる気をぽいぽいと捨てた者は、やがて人生ごと捨てられる。
その道は、社会の隙間に落ちる静かな音で終わる。
――さて、あなたは今、やる気を手放してはいないだろうか?