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なぜ「正しく生きよう」とすると息苦しくなるのか

 

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答え:正しさを制度や規範に委ねてしまい、自分の生を自分で選び取る余地を奪うから

 

なぜ人は「正しく生きよう」とすればするほど、かえって自由を失い、息苦しさに包まれてしまうのだろうか。本来、正しさとは善き方向へ導くための灯台のはずだ。人を支え、誤りを避けさせ、よりよい生を切り拓くための基準であるはずだ。ところが、現実には「正しく生きよう」と念じた瞬間から、人は自分の一挙手一投足に萎縮し、他者の目を気にし、人生がかえって窮屈になる。正しさは指針ではなく重荷に変わり、心臓を圧迫する鉄の枷となる。

この逆説を考えるとき、まず浮かぶのは「正しさの外部化」である。人はしばしば正しさを自分で定めず、社会のルールや文化の常識、あるいは権威ある人物の言葉に預けてしまう。イヴァン・イリイチが指摘したように、近代社会は「専門家」を生み出し、判断を外部化させる仕組みを拡大してきた。教育は専門家に委ねられ、医療は医師に委ねられ、幸福の定義すら広告やマニュアルに委ねられる。正しさもまたその例外ではない。「こう生きるのが正しい」という答えを誰かが示してくれるなら、その通りに従えば安心できる。しかしその瞬間、私たちは自分自身で考える自由を失い、他者が設定した正しさの檻の中に閉じ込められる。

次に問題となるのは「正しさの形式化」である。制度に組み込まれた正しさは、具体的な文脈や個別の事情を無視し、形式に還元される。学校では「テストで点を取ること」が正しさになり、職場では「ルールを守ること」が正しさになる。だが形式を守ることと生きることの豊かさは必ずしも一致しない。正しさが形式だけをなぞるものになると、そこには「意味」が欠落する。意味のない形式を繰り返すことほど人を息苦しくさせるものはない。

さらに、正しさはしばしば「比較」の装置となる。正しく生きているかどうかを測るためには基準が必要だが、その基準は他者との相対評価に傾きやすい。「あの人はあんなに献身的に働いているのに」「あの家庭はこんなに健全なのに」と、他人の姿を参照して自分の生を裁く。正しさは善き生への道標であるはずなのに、比較の材料になると人を縛り付け、劣等感や羞恥を呼び起こす。結果として「正しさを追求する」ことが、「他人に負けないようにする」ことへと転化してしまう。

タレブの言葉を借りれば、正しさは「脆弱性」を生む。反脆弱なシステムとは、混乱や失敗を通じて強くなる仕組みだ。ところが正しさを至上の原理とした生き方は、失敗を一切許容しない。少しでも間違えば自己否定に陥る。小さな逸脱も見逃せず、自分を責め、他人を責める。つまり「正しく生きよう」とするほど、失敗に対する耐性を失い、人生そのものが壊れやすくなるのだ。人間は本来、間違いを通して学び、矛盾を通して成長する存在だ。だが正しさを絶対化した瞬間、そのプロセス自体を禁じてしまう。息苦しさとは、間違える自由を奪われた結果にほかならない。

もうひとつ見逃せないのは、「正しさ」と「欲望」の関係である。人は欲望を持つ存在であり、その欲望は時に社会的な規範と衝突する。「もっと怠けたい」「もっと快楽を味わいたい」「もっと不合理に身を委ねたい」。こうした欲望は正しさに照らせば「悪」とされるかもしれない。だが、欲望を完全に抑圧することはできない。それを無理に封じ込めると、心は爆発し、かえって歪んだ形で噴き出す。正しく生きようとする試みが、欲望の地下水脈を過剰に膨張させ、いつか大きな破裂を生む。これは倫理的な抑圧が不道徳を生み出す古典的な逆説でもある。

ここに「正しさの暴力」が現れる。善意で設計された正しさが、人を守るどころか窒息させる。家庭では「いい子でいなさい」という言葉が子どもの自由を奪い、職場では「真面目に働け」という命令が創造性を殺す。宗教では「正しい信仰」が異端狩りを正当化し、政治では「正義」が弾圧の理由にされる。正しさが暴力に転じるとき、人はもはや自分の生を生きているのではなく、他者が定めた規範の再生装置に成り下がる。

しかし、正しさを完全に捨てることもできない。正しさがなければ、社会は無秩序に崩壊する。人と人とが共に生きるためには、ある程度の正しさが不可欠だ。では、どうすれば正しさに窒息させられずに生きられるのか。鍵となるのは、正しさを「外部から与えられるもの」ではなく「自分の中で引き受け直すもの」として捉え直すことだろう。

正しさを自分で選び取り、時に逸脱し、時に手放す。その柔軟さがあって初めて、正しさは息苦しさから解放される。イリイチが提唱した「脱学校化」と同じように、私たちは「脱正しさ化」を試みる必要があるのかもしれない。つまり、正しさを唯一の軸にせず、複数の価値や矛盾を抱えたまま生きることだ。そのとき人は、正しさに従属するのではなく、正しさと戯れることができる。

息苦しさの正体は、「正しく生きなければならない」という強迫観念である。だが人間の生とは、本来もっと不器用で、曖昧で、揺れ動くものだ。完全に正しくなど生きられない。それでもなお、人は間違い、倒れ、立ち直り、試行錯誤の中で自分なりの道を探していく。もしタレブの言う反脆弱性が人間に備わっているのだとすれば、私たちが必要とするのは「完璧な正しさ」ではなく、「間違いを資源に変える力」だろう。

結局、「正しく生きよう」とすることが息苦しさを生むのは、私たちが正しさを絶対化するあまり、自分を矛盾や逸脱から切り離してしまうからだ。正しさとは灯台であって、牢獄ではない。私たちは正しさに導かれながらも、あえて逸れる自由を持たなければならない。

 

 

最後に・・・

では、あなたにとって「正しさに縛られない正しさ」とは何だろうか?

 

 

 

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