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読書日記と哲学がメインです(毎日更新)

ポチポチ祭り: 清潔感ない人ぽいぽ〜い物語

ポチ、ポチ、ポチ。
静かな雨の夜、掌の上の画面だけが白く光り、世界は指先の同じ音で仕分けられていく。ポチポチは、都市の心臓の鼓動よりも正確で、救急車のサイレンよりも冷たい。同僚はそれを「効率」と呼び、行政は「健全な再生産」と呼んだ。だが、僕にはただの「合図」にしか思えなかった。僕が切り捨てられる、その合図だ。
年収七百万。境界線は細い糸みたいに無色透明で、触れれば切れて、切れても血が出ない。僕は六百八十七万。評価欄は橙色で、アルゴリズムが出したコメントは「努力が感じられます」。努力は感じられるらしい。だが、感じられるということは、まだ欠けているということだ。ついでに「清潔感スコア:6.3」。耳の後ろ、靴のコバ、ワイシャツの襟。街中に新設された「清潔感鏡」に立つと、赤外線と可視光と嗅覚センサーが立体的に僕を測っていく。鏡の前に立つ人々の間から、同じ音が漏れる——ポチ、ポチ。
婚活アプリ「CIVITAS-婚」は、市民の相互評価を公共事業に組み込んだ。税金の一部は、ポチポチの音の数で配分される。上位一割の「選ばれやすい」男女には市営住宅の優先権と育休の拡張枠が与えられ、下位三割は匿名のまま統計に吸い込まれる。選ぶ側の指は軽く、選ばれる側の胸は重い。僕は後者だ。画面の中で笑う女性たちは、プロフィールの文末に似たような句読点を付ける。「共に未来をつくれる方、希望」「清潔感ある方、希望」。希望は名詞から形容詞になり、最後は条件になる。条件は指先に変わり、条件が僕をひと押しで沈める。ポチ。
同僚の森川が言った。「髪、もう少し短くすれば? 清潔感、上がるよ。あと、靴は毎日磨いたほうがいい。投資って大事。」
鏡に映る僕は、言葉を呑み込んだ。投資。もう、毎朝五時に起きてランニングして、珈琲の油膜を避け、爪の白い三日月を整え、シャツはオキシ浸け。清潔感は努力で積み上げられる貨幣になった。だが貨幣は貨幣でしかない。ある線を越えた途端、足元の床がエスカレーターのように傾くのだ。上へ行く人の靴底はいつも乾いている。下りに乗った僕の靴は、昼前に濡れる。
ある晩、公園のベンチで「CIVITAS-婚」の通知が揺れた。
〈いいね!をいただきました〉
心臓が跳ねる。相手の名前は「春のひかり」。プロフィールには「ポチポチの音が好き。世界が私のリズムで整っていく気がする」とあった。僕はなぜか笑ってしまった。返事を書きかけてやめ、また書いた。「メッセージありがとうございます。よければコーヒーでも」。
送信ボタンに親指をのせ、ほんの少しだけためらう。僕の年収は表示される。清潔感スコアも。彼女は画面越しに僕の襟の影まで嗅ぎ取るだろう。だが、ためらいは指を止めない。ポチ。
返事は早かった。
〈明日、清潔感鏡の前で待ち合わせしませんか?〉
鏡で? なぜ。
〈あなたがどんなふうに映るのか、私の目で確かめたいから〉
その一文だけは、アルゴリズムの語彙に見えなかった。僕は引力に引かれる砂粒のように、翌日の予定を空けた。
夕暮れの鏡は、街灯より明るかった。列に並ぶカップルたちが、互いのスコアを覗き込み、うなずき合う。ポチポチという音が、遠く近くで重なる。ひかりは、目尻に笑い皺のある人だった。白いマスクの向こうで、声は柔らかい。「はじめまして。ほんとに、来てくれたんだね」
「来てくださいって言ったのはあなたでしょう」
笑って、順番を待つ。前のカップルの男性は八百万台、女性は「清潔感9.1」。鏡が「適合率88%」を表示し、二人は小さく手を握った。拍手はない。ただ、またポチポチ。となりで、別の誰かが別の誰かを消している。
僕の番になった。鏡に立つと、淡い網の目の光が皮膚をなぞり、髪の一本一本が数値に変換されていく。
〈年収:6,870,000〉
〈清潔感:6.3 → 6.4(今日の服装評価により補正)〉
〈適合率:未計算〉
ひかりが隣に歩み出て、マスクを外した。
〈清潔感:8.8〉
〈選別偏差:−0.2(選び過ぎ傾向)〉
鏡は、彼女の「選ぶ力」をも評価していた。「選び過ぎ」は、国家が嫌う欠点だ。社会の再生産を阻害する、と政令が言う。選べない者にはペナルティがつき、補助金が減る。それでも彼女は、数値の表示に眉を動かさなかった。
「あなたの指の動かし方、音が丁寧ね」
「音?」
「ほら、あなたの『ポチ』は、少しだけ溜めがある。ちゃんと人を見てから押してる音」
彼女は、ポケットから古いスマホを取り出した。画面に、連なる音の波形。僕のポチ、彼女のポチ、通りすがりのポチ。
「私はあの音が好きって書いたけど、ほんとは違う。音が怖いの。だから、耳を鍛えて、せめて音の違いだけは聞き分けたいと思った」
「じゃあ、あのプロフィールは嘘だ」
「嘘じゃない。あれは、怖がり方の告白」
鏡が、適合率の計算を示す円を回して止まらない。周囲のポチポチが増幅して、遠くの高層住宅の窓が点滅しはじめる。少しして、画面に「判定不明」と出た。係員が近づく。「申し訳ありません、エラーです。収入閾値と清潔感スコアの相関が……」
彼は台本通りの言葉を口にして、僕たちを列の端に誘導した。ひかりが笑った。「はじめて見た。判定不明なんて」
「不合格よりひどいかもしれない」
「いいや、外れる道があるってこと」
彼女の部屋は、川沿いの古い共同住宅にあった。インターホンはついていない。階段を上がると、古新聞で両側を塞がれた踊り場に出る。「隣人がね、遮音に使ってる。ここでは『清潔感』って言葉は禁句だよ」
部屋に入ると、壁一面に紙片が貼られていた。ポチポチの波形、切手、失効したクーポン、未送信のメール。テーブルの上には小さな機械。
「録るの。ポチポチの生の音を。どこで、誰が、何を見て押した音か、私は勝手に物語をつける」
彼女は再生ボタンを押し、耳を澄ますように目を閉じた。はじめは同じ音にしか聞こえない。だが十分も経つと、少しだけ差異が見えてくる。軽蔑のポチは、打鍵後の空白が長い。ためらいのポチは、指の震えが波形に刻まれる。恐れのポチは、小さな吸気音を伴う。
「この音たち、世界の平面図ね」
「地図?」
「うん。どこに段差があるか、どこが滑りやすいか、どこに置き石があるか。音で歩き方を覚えるの」
「それで、どうやって生き延びる?」
「問うこと。押す前に。押したあとに」
数日して、都市は新しいアップデートを配信した。「人間工学的幸せ指数(EHI)」の導入。収入と清潔感に、睡眠リズム、食生活、親族の既婚率、そして「ポチポチの整合性」が加わる。整合性とは、選ぶ基準の一貫性らしい。揺らぐ者は、危険。揺るがぬ者は、優良。通知は言う——〈健全な揺らぎを認めつつ、過度な迷いは社会コストを増大させます〉。迷いがコストになる。僕は笑うしかなかった。迷いがなければ、人を人として見ることをやめるしかない。
夜、ひかりと街を歩いた。清潔感鏡の周辺は、露店のようにサロンや撮影ブースが並び、ポチポチの音に合わせてシャンプーのボトルが点滅する。通りの端で、男が叫んでいた。「閾値を下げろ! 七百万なんて嘘だ!」 警備ドローンが飛んできて、男の声を吸い取る。残るのはポチポチだけ。
「彼の声も、波形になるのかな」僕が言うと、ひかりは首を振った。「ならないよ。選ばない音は、記録されないから」
僕は自分のスマホを開き、未送信のメッセージを打った。「制度に反対する署名をしませんか」。指が止まる。ためらいのポチは、見つかる。整合性が下がる。仕事に影響が出る。家族に迷惑がかかる。脳裏に走る利害計算は、僕のものなのか、それとも学習済みの反射なのか。
ひかりが僕の手首を軽く叩いた。「音を録ろう」
「なにを?」
「あなたのポチ。あなたの迷いを、あなたのことばに変える練習」
僕はうなずき、録音ボタンを押す。空気が少し重くなる。指を画面に落とす前の、一秒。世界には、こんなにも大きな一秒があるのだと知る。やがて、押す。ポチ。
その音は、僕の耳には少しだけ低く聞こえた。押したあとに呼気が混じり、波形の背後に微かな乱れが見える。ひかりが笑う。「いい音だね」
「どうして?」
「あなたのためらいは、私を守る音に聞こえる」
翌朝、出社のために改札を抜けると、駅の天井に巨大な広告が現れた。〈ポチポチを賢く。未来はあなたの一押しで決まる〉。誰かが、すれ違いざまに僕の肩を小突いた。彼のスマホの画面に映った僕のプロフィール。年収、清潔感、適合率未計算。彼は鼻で笑い、指を落とす。ポチ。
僕は立ち止まり、吸い込んだ空気をゆっくり吐いた。世界は押し返せるのか。指はただの指だ。だが指の運動は、ことばにもなりうる。ひかりが言っていた。「問うこと」。僕は振り返り、彼に言った。
「あなたの音、少しだけ速いですね」
彼は一瞬だけ眉をひそめ、足を止めた。僕は続ける。「速さと正しさは違う。あなたの速さは、誰のためのものですか」
沈黙。ホームに風が入る。遠くの線路の上で、またポチポチが重なる。彼はなにか言いかけて、それから肩をすくめ、去っていった。勝ち負けではない。音が、ほんの少しだけ違う方向に流れたのだ。
その夜、ひかりの部屋で僕らは波形を並べた。反対デモの音、鏡の前の笑い声、通りの雨の粒。ポチポチの海図は、見えない陸地の輪郭を描き始める。閾値の線は、思ったよりも曲がりくねっている。清潔感の段差は、意外に常夜灯の下で低くなる。迷いは、風の通り道で濃くなる。
「地図は完成する?」
「しないよ。でも、歩き方は変えられる」
僕はメッセージを打った。ひかりにではない。アプリでもない。自分に。
——押す前に、問いを一つ。押したあとに、名前を一つ。
指を上げる。画面はまた白く、世界はまた平らだ。僕は、押す。ポチ。
その音を、僕は自分で聞いた。たしかに、昨日よりも遅い。遅さは、弱さじゃない。遅さは、肩代わりしてくれていた他人の痛みを自分の指に戻す速度だ。
翌週、清潔感鏡の前に小さな紙片が貼られた。子どもの字で、こう書いてある。
〈ポチのまえにきいて。だれのため?〉
係員は剥がしたが、すぐに別の紙が貼られる。紙はやがて付箋になり、付箋はバッジになり、バッジは合図になった。駅の通路を歩いていると、見知らぬ誰かがそっと胸元を指さす。小さな白い円に、手書きの「?」。彼は微笑んで去る。ポチポチの音が、かすかに変調する。
制度はすぐには変わらない。七百万の糸はまだ宙に張られているし、鏡は今日も明日も誰かを測る。けれど、音はもう、完全には同じでいられない。選ぶ指は、いつか自分が選ばれる指に重なる。僕は耳を澄ます。ひかりも耳を澄ます。世界中のポチポチが、ほんの少しだけ遅くなる日を思い描く。
その日、僕たちは何を押し、何を押さずにいられるだろう?