つづきを展開
「普通でいようね」という言葉ほど、無害を装った暴力はない。優しさの仮面をかぶりながら、誰かを静かに排除する。それが“普通”という名の呪いだ。私のように形式にはまらない人間は、その呪いに何度も躓いてきた。ルールを守っているつもりでも、どこかで「空気を読まない」とされ、誤解を受け、疎まれる。だが、気づいてほしい。排除しているのは人ではなく、“平均”という怪物だということに。
社会は「平均」を善として崇める。平均点、平均所得、平均的な幸せ。それらがあたかも「正しさ」の指標であるかのように信じられている。だが、平均とは本来、統計上の便宜にすぎず、人間の生き方を測る尺度ではない。にもかかわらず、平均が倫理になり、平均が美徳とされ、平均が安心の条件になっている。ここに“普通”の呪いの根がある。平均は人間を傷つけない顔をして、あらゆる差異を削ぎ落とし、異物を排除する。過剰でも、欠乏でも、奇抜でも、怠惰でもない、「ちょうどよい」存在だけを生き残らせる。その“ちょうどよさ”の裏に、どれほどの息苦しさが埋め込まれているか、誰も語らない。
平均化の暴力は、露骨な支配よりもたちが悪い。なぜならそれは、善意の形式を取るからだ。教育の現場では「協調性」が褒められ、会社では「周囲と合わせる力」が評価される。だが、それは往々にして、「異なるリズムを持つ者」を排除する口実になる。形式にはまらない人間――つまり、思考や感情のテンポが他人とずれている人――は、「扱いにくい」「空気が読めない」「自己中心的」とみなされる。だが、そうした評価は、実際には平均の側が定義した形式にすぎない。社会は「秩序を守るために他者を排除している」のではない。「不安を消すために異質を消している」のだ。
形式化とは、本来、社会を秩序づけるための知的な装置だった。法や制度、教育、礼儀、言葉――それらは、混沌のなかで人間が生きるための枠組みだった。しかし、現代では形式が目的化し、形式そのものが「正しさ」へと変質してしまった。つまり、形式が内実を食ってしまったのだ。言葉は内容よりも「言い方」が重視され、誠実さよりも「態度」が評価される。何を言うかではなく、どう見えるかが問題になる。このとき、“普通”は形式と結託する。形式は「普通のふるまい」を保証し、普通は形式に正統性を与える。両者が互いを補強し合うことで、社会は完璧な均質化装置になる。形式はもはや秩序ではなく、排除のメカニズムとして機能している。
“普通”の人々が信じるルールは、じつは形式に支配された習慣にすぎない。形式を守ることが道徳になり、形式を外れることが罪になる。だが、その形式のなかには、真実も情熱も含まれていない。たとえば、謝罪会見での「誠意ある態度」がそうだ。そこに誠意があるかどうかは問題ではない。形式的に「誠意を示すこと」が目的になっている。形式が感情を代理し、誠実を模倣する。だが、その瞬間、人間の関係性は交換可能なジェスチャーへと変わる。つまり、形式とは“普通”を維持するための演技の体系なのだ。
“普通”という言葉が社会を支配するのは、形式が「見た目の秩序」を保障するからだ。秩序が崩れることを、人は死ぬほど恐れる。だからこそ、形式の外に出ようとする者を弾き飛ばす。「常識がない」「非常識」「変わり者」――それらの言葉は、形式の守護者が放つ呪詛である。形式を乱す者は、社会のリズムを乱す者とみなされる。だが、リズムが揃いすぎた社会は、やがて死ぬ。呼吸の揺らぎを失った身体のように、自己修復できなくなるのだ。形式化された“普通”とは、死を恐れすぎた社会の自己防衛反応なのかもしれない。
平均化された形式の中では、誰もが「ちょうどよく」動くことを求められる。感情も、意見も、表情も、すべてが「中庸」でなければならない。怒りは攻撃的とされ、悲しみは面倒くさいと片づけられ、笑いでさえも「感じの良さ」の範囲に収められる。人間の感情は揃えられ、思考はテンプレート化される。だが、扱いやすい人間ほど、もはや生きてはいない。形式が人を生かすのではない。形式は、生の不定形さを排除するための構造にすぎない。平均とは、形式の別名である。
私は長いあいだ、この構造の中で息苦しさを感じてきた。形式を守っても報われず、形式を外れると孤立する。その矛盾のなかで、自分の言葉が少しずつ摩耗していった。だが、ある時に気づいた。形式に従うことと、秩序を尊重することは違う。秩序は共存のための原理だが、形式は往々にしてその逆、異質の排除による安定をもたらす。形式が完成するほど、社会は閉じる。だから、形式の外に立つことは、反抗ではなく誠実さの表明なのだ。
“普通でいる努力”をやめること。それは無秩序への降伏ではなく、内面の誠実さの回復である。平均に安住することで失われるのは、他者への理解力だ。人は形式を信じすぎると、相手の内実を見なくなる。表面的な態度で他人を測るようになり、想像力が枯れる。形式とは、想像力の代用品にすぎない。だから、形式に合わない人は「理解できない」とされる。だが本当は、理解しようとしていないだけなのだ。社会は考えることを面倒くさがり、「考えなくてもわかる形式」に逃げている。
形式と“普通”の同盟が崩れるとき、ようやく人は呼吸を取り戻す。形式を否定するのではなく、形式の背後にある「本当の目的」を再発見すること。つまり、秩序のためではなく、共感のために形式を使うこと。そうすれば、形式は再び人間のための道具になれる。形式の呪縛から逃れるとは、形式を憎むことではなく、形式に内側からズレを与えることだ。そこにしか、自由は生まれない。
“普通”の呪いを暴くとは、平均を否定することではなく、平均を信仰の対象から降ろすことだ。形式に従うだけの正しさを脱ぎ捨て、思考の不均衡を肯定することだ。私たちはもう一度、形式に「人間的なゆらぎ」を取り戻さなければならない。なぜなら、社会の真の危機とは無秩序ではなく、完全な秩序だからである。完全さは死と紙一重だ。だからこそ、私は形式にはまらない。ズレながら、呼吸しながら、誠実に考える。その不揃いなリズムこそが、“普通”という呪文を解く唯一の方法なのだ。