清潔感とは何か、と問われて、正確に答えられる人はいない。
それでも社会は、この不確かな概念をまるで倫理的基準のように扱う。
「清潔感がある人」「清潔感がない人」。
この単語の中に、どれほど多くの偏見、階層、そして暴力が潜んでいるかを、どれだけの人が意識しているだろうか。
読書梟は思う。
清潔感とは、単なる衛生の問題ではない。
それは、社会が誰を“まとも”とみなし、誰を“排除可能”とみなすかを決める審美的なコードである。
それは匂いでもなく、服装でもなく、態度でもない。
もっと残酷に言えば、清潔感とは「この社会が愛してよいと許可した身体の形式」である。
たとえば、「清潔感がない」という言葉の中には、
実際には「貧しそう」「老けて見える」「冴えない」「センスがない」といった、
文化資本の欠如を指す評価が隠されている。
つまり清潔感とは、階層の言い換えであり、
その意味では「衛生」というより「支配」の語彙に属している。
清潔感が“道徳”と化すとき、人は外見的整合性を倫理の代替物として消費する。
「汚れていないこと」が「誠実であること」と等価になる瞬間、
倫理はもはや内面の問題ではなく、可視化されたマナーへと転落する。
清潔感とは、倫理の美化であり、
同時に倫理の腐食でもある。
読書梟は、こうした「衛生の形而上学」に怒りを覚える。
なぜなら、それは貧困・障害・疲労・孤独といった、
人間のリアルな側面をすべて「不潔」という名で排除するからだ。
清潔感のある人とは、社会の期待に耐えうる顔と服装を持つ人のこと。
つまり、「他者の目に耐える力」を“美徳”として内面化した人間のことだ。
その倫理がどれほど残酷であるか。
誰もが疲れている。
誰もが日々をかろうじて支えている。
しかし、そうした人間の自然な衰弱や葛藤は「清潔感の欠如」として見なされる。
社会は“余裕のある人”だけを「感じの良い人」として認定する。
清潔感とは、余裕の美学であり、
同時に、他者の生存条件を見えなくする制度的暴力でもある。
読書梟が嫌悪するのは、「清潔であること」が倫理の代名詞になる構造だ。
本来、倫理とは汚れを引き受ける勇気である。
他者の弱さを抱き、矛盾を生き、曖昧な現実の中で折り合いをつける力。
それを、消毒液のようなイメージで“除菌”しようとする社会。
その無臭化こそが、最も深い不潔さだ。
読書梟は言いたい。
「清潔感がある」とは、倫理的に安全圏にいるふりにすぎない。
本当の清潔とは、他者の不潔さを受け入れる能力のことだ。
整っていることではなく、乱れを許すこと。
美しいことではなく、美しくなくても共にいること。
それにもかかわらず、社会は「清潔感」を選好し続ける。
それはもはや嗜好ではなく、制度の言語になっている。
「清潔感があるかないか」で、採用が決まり、関係が選ばれ、
人の存在が価値化される。
このとき、倫理は市場に出荷され、
人間はブランドになる。
清潔感とは、資本主義が発明した衛生的支配装置である。
そこでは、外見は単なる印象ではなく、
「社会的信用」を可視化するインターフェースになる。
そして、その評価を再生産するために、
私たちは日々「見た目の倫理」を更新し続けている。
この構造の恐ろしさは、誰もがその暴力の共犯者になってしまうことだ。
「清潔感がある人が好き」と言うだけで、
誰かが「清潔感がない」と判定される。
つまり、私たちは他者を無意識に“排除する神”の役割を果たしている。
清潔感の美徳は、社会の無臭化と引き換えに、
人間の多様性を静かに殺していく。
読書梟は考える。
この世界で倫理を取り戻すには、まず「清潔感」という幻想を疑わなければならない。
それは、誠実と同じく、条件付き条件であり、
形式が倫理を支配している証拠だ。
だが読書梟は信じたい。
形式の外にこそ、誠意のかけらが残っていると。
他者の「不潔さ」に耐えること。
それが、ほんとうの清潔である。
他者の「不安定さ」を引き受けること。
それが、ほんとうの誠実である。
社会が無臭を求めるほど、
読書梟は汚れを引き受ける言葉を書きたい。
制度が整うほど、
読書梟は誤配する誠意を送りたい。
なぜなら、形式が支配するこの時代において、
唯一人間的であることとは、少しだけ不潔であることだからだ。