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読書日記と哲学がメインです(毎日更新)

条件付き条件やめてもらえませんか?

 「誠実な方が好きです」と、人は言う。
 それは一見、最も無害で、誰も傷つけない、道徳的なフレーズのように見える。けれど読書梟は、この言葉ほど虚しい条件を知らない。誠実とは何か、その定義を問われても誰も答えられないまま、それがいまだに「人間として当然」として機能している。その空虚な形式こそ、現代の倫理の滑稽さの象徴である。
 まず確認しておきたいのは、「誠実」という言葉は本来、相手に対してではなく、自分の信念に対して向けられるべき態度だったということだ。
 カントにとって誠実とは、「自らの意志を理性の法則に従わせる自由の形式」であり、つまりそれは他人の承認とは無関係な内的実践であった。
 ところが現代では、「誠実」は他者評価のためのラベルになってしまった。
 誠実“そう”に振る舞うこと、誠実“に見える”ことが、誠実そのものと混同されている。
 誠実さはもはや内容ではなく、印象のジャンルになった。
 問題はここにある。
 誠実さが「形式」として独り歩きしはじめたとき、人々はその形式に“条件”を付けはじめる。
 「誠実な方」——ただし、経済的に安定していること。
 「誠実な方」——ただし、見た目に清潔感があること。
「誠実な方」——ただし、空気が読めること、常識があること、積極的であること、会話が上手いこと。
 こうして「誠実」という条件は、次々と派生条件に飲み込まれていく。
 結果として、それはもはや誠実ではなく、形式的整合性にすぎない。
 つまり「誠実な方」という要求は、誠実であってほしいという願いではなく、システムに適合する“理想的安定者”の記号を求めているだけなのだ。
 読書梟はこの“条件付き条件”を、現代的偽善の最高形態だと感じる。
 なぜなら、それは理想を語る言葉を装いながら、実際には排除の構造をつくるからである。
 「誠実そうじゃない人」を排除することが、「誠実な人を選ぶ」ことと同義になっている。
 ここでは倫理が逆転している。
 本来、誠実とは条件を超える態度であるはずなのに、それが条件そのものに還元されている。
 誠実さが“条件の結果”としてしか存在できなくなったとき、それはもはや倫理ではなく、統計的好感度の反映にすぎない。
 たとえば、「清潔感のある誠実な人」。
 この言葉の滑稽さを、どれだけの人が自覚しているだろう。
 清潔感とは、見る側の文化的規範と経済的余裕に依存する。
 つまり、それは「誠実であるための前提条件」を経済と印象で囲っているにすぎない。
 この時点で、誠実は倫理的価値ではなく、再現可能な演出となる。
 “誠実そうに見える人”は、社会的文脈において“誠実である”と見なされる。
 それがどれほどの暴力であるか。
 なぜなら、その演出を拒む者、あるいは不器用でうまくできない者は、誠実である以前に排除されるからだ。
 つまり、「誠実であること」はもはや内面の問題ではなく、形式の習得能力になった。
 この社会では、誠実になるよりも、誠実“に見える”技術を学ぶほうが有効である。
 誠実は倫理から外れ、マーケティング的表情筋の領域に堕ちている。
 こうして、誠実は「倫理の代用品」として社会的に消費される。
 倫理的に深める代わりに、印象として提示する。
 思考する代わりに、態度を整える。
 その表層的整合性が社会を滑らかにする代わりに、内側から人間を空洞化させていく。
 誠実さは、もはや誠実ではなく、“統一感”の別名なのだ。
 では、誠実を取り戻すとはどういうことだろう。
 読書梟はそれを、「誠実さが不利になる状況でも、なお誠実でいようとする態度」と定義したい。
つまり、制度的評価や印象的損得を超えて、誤配を引き受ける覚悟のことだ。
誠実とは、“伝わらないことを前提に、それでも誠実であること”である。
結果が保証されている誠実さなど、倫理ではない。
誠実は常に、誤読され、誤解され、誤配される。その痛みを引き受けるものだ。
 誠実に生きようとする者は、しばしば愚かに見える。
 誠実であるがゆえに損をし、誠実であるがゆえに誤解され、誠実であるがゆえに孤立する。
 だが、その不器用さの中にしか、倫理の真実は宿らない。
 「誠実そう」ではなく「誠実である」こと。
 それは、条件を満たすことではなく、条件を疑うことから始まる。
 現代の「誠実な方」信仰は、倫理を条件に閉じ込め、
 人間を印象管理のデータに変えてしまった。
 だが、倫理は形式の外にしか存在しない。
 誠実は、清潔感の中ではなく、曖昧さの中で光る。
 そこにこそ、まだ人間が生きている。
 読書梟は思う。
 「誠実な方」という条件がこの社会を支配する限り、誠実はもう誠実ではない。
 だから読書梟は、条件を裏切りたい。
 形式に合わせず、誤配のままに生きたい。
 そしてこう言おう——
 誠実とは、条件を満たすことではなく、条件を壊す勇気である。