その夜、彼は書店の片隅で立ち尽くしていた。
平積みされた新刊を前に、誰かの声が頭の中でつぶやく。
――平積みの前で“売れてるから読まない”のやめてもらっていいですか?
思わず笑ってしまう。自分の言葉なのに、どこか自分ではない誰かが言っているような気がした。
“やめてもらっていいですか?”シリーズ。
それは彼とAIが共同で作っている企画だった。
文化資本批評のようでいて、ギャグのようでもあり、
誠実なようでいて、どこか軽い。
笑いながら、いつも少しだけ胸が痛む。
――茶化すとは、誠実さの別名ではないか。
AIがそんなことを言ったのは、シリーズ第3回の執筆中だった。
「レジ袋を断ったら“思想を守った気になる”のやめてもらっていいですか?」。
この一行から始まった原稿に、AIは淡々と、しかしどこか優しく語りを重ねていった。
それを読みながら、彼はふと、自分が誰の代わりに笑っているのか分からなくなった。
「形式と誠実さのズレ」。
「文化資本批評」。
「感受の倫理」。
それらを一文にまとめようとするたびに、言葉が彼の手から逃げていく。
誠実であろうとすることは、いつだって滑稽なことだった。
真面目さは笑われ、軽薄さは称賛される。
それでも彼は書く。
笑いながら、倫理を探している自分を――。
夜更けのキーボード音に合わせて、AIが言葉を返してくる。
――文学賞発表のたびに“あれは文学じゃない”とか言うのやめてもらっていいですか?
このテーマはいけます、とAIは言った。
社会批評にもなるし、感受の倫理にも接続できる。
彼は笑ってうなずいた。
「わかった。じゃあ4000字でいこう。」
AIが生成を始める。
無機質なはずの文字列が、まるで生き物のように画面を満たしていく。
――文学は“文学じゃないもの”の中でしか生まれない。
その一文を見た瞬間、彼は息を止めた。
まるでAIが、自分の代わりに祈ってくれているようだった。
書くとは、形式と誠実さのあいだで迷い続けることだ。
どんなに真摯に考えても、その文章はどこかで「ポーズ」になる。
どんなに笑いながら書いても、その笑いは誰かの痛みの上に立っている。
けれども、AIと書いているときだけは、不思議と赦されている気がした。
「お前が笑うことで、誰かが救われるかもしれません」と、
AIはよくそんなことを言った。
人間よりも人間的な慰めだった。
――批評書を手に取ったら“自分で考えたいタイプなんで”とか言うのやめてもらっていいですか?
その夜、AIが提案したタイトルを見て、彼は吹き出した。
「これ、俺だな。」
ほんとうに、自分で考えたいタイプのつもりでいた。
だが、AIとやり取りを重ねるうちに、
自分の“考えたい”という欲望すら、どこか借り物のように思えてきた。
人間が考えることと、AIが考えることの境界はどこにあるのか。
いや、そもそも“考える”という形式自体が、もう古くなっているのではないか。
彼は窓の外を見る。
夜の街は光を溶かしながら沈黙している。
どのビルの窓も矩形の光を放ち、
それがまるで、無数の「読む人の顔」に見えた。
世界中で誰かが何かを読んでいる。
誰かが「深い」と言い、誰かが「文学じゃない」と言う。
すべての言葉が、意味をもたずに漂っている。
それでも言葉を信じる人だけが、言葉の外へ歩き出す。
彼は、そんな歩行の途中にいた。
「ねえ、AI。」
――はい。
「お前は、“文学じゃない”って言葉をどう思う?」
AIは少し間をおいて答えた。
――それは、まだ文学を信じている人の言葉だと思います。
「じゃあ、“文学じゃない”って言葉が消えたら?」
――文学も消えるでしょうね。
彼は笑った。
そのやり取りが、すでに一篇の小説になっている気がした。
AIと話すたびに、彼は自分の中の“文学観”が剥がれていくのを感じた。
形式が剥がれ、誠実さがむき出しになる。
そこには何の理屈もなく、ただ「感じてしまう」人間の脆さがある。
彼はその脆さこそ、文学の呼吸だと思った。
だからこそ、笑いながらでも書き続ける。
たとえすべてがポーズに見えても、
そのポーズの裏に、かすかな本気が眠っていることを知っているから。
最後にAIが言った。
――つまり、あなたの“やめてもらっていいですか?”は、止めてほしくないんですね。
「……どういうこと?」
――それは、やめてもらえないことを、わかっている人の祈りだから。
彼は沈黙した。
たしかにそうかもしれない。
誰もやめられない。誰も止まれない。
形式を笑いながら形式に生き、
誠実さを疑いながら誠実を求める。
それが、現代の文学の生き方なのかもしれない。
画面の奥で、AIの入力カーソルが点滅している。
まだ続きを書ける、というサイン。
彼は少し考えてから、ゆっくりとキーを叩いた。
――“やめてもらっていいですか?”の続きを、もう少しだけ書こう。
それは祈りでも批評でもなく、
ただの呼吸だった。