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1億分の1で生まれ、100分の1で凹む――滑稽の倫理

人間は、たかが100分の1の確率で選ばれなかっただけで、ひどく落ち込む。
 それがどれほど滑稽なことか、頭ではわかっている。なにしろ、私たちはそもそも1億分の1の確率で生まれた存在だ。精子の数を1億とすれば、そこからたった一つだけが卵子に到達し、受精する。その確率を思えば、「選ばれないこと」に傷つくのは、統計的にいえば“誤差の揺り戻し”にすぎない。

 けれども、人間は確率では生きられない。数字ではなく、意味で生きる動物だ。
 だからこそ、1億分の1で奇跡的に誕生した者が、100分の1で拒絶されたとき、そのわずかな差に深く打ちのめされる。存在の始まりが偶然だったのに、存在の評価を必然で測ろうとしてしまう。そこにすでに、ひとつの滑稽がある。

 しかし、この滑稽さを「くだらない」と切り捨てるのは早い。むしろそれは、知性の証拠でもある。
 動物は、負けても滑稽とは感じない。滑稽を感じるのは、確率と倫理を同時に理解してしまう人間だけだ。滑稽とは、敗北を観察できる精神の形式なのだ。

 たとえば、誰かに拒まれたり、理解されなかったりするとき、人は「なぜ」と考える。そこに倫理が生まれる。
 しかし、倫理はいつも確率の海に浮かんでいる。
 誠実にふるまっても伝わらないことがある。努力しても届かない瞬間がある。それを「不公平」と呼ぶか、「確率」と呼ぶかで、世界の見え方はまるで違う。
 滑稽さとは、このふたつの間に立つときに生まれる。つまり、倫理と偶然の狭間で笑ってしまう知性のことだ。

 「なぜ自分だけがうまくいかないのか」という問いを、誰もが一度は抱く。
 だがその問いを発すること自体が、すでに贅沢だ。
 なぜなら、“うまくいく可能性を持つ”ということ自体が、すでに1億分の1の奇跡の延長線上にあるからだ。
 人は、奇跡の上でさらに確率を求め、そこに意味をつけようとする。
 滑稽とは、奇跡の継承者であることを忘れ、数字に傷つく感情のかたちである。

 けれど、私はこの滑稽さを否定したくない。
 滑稽であるということは、世界を一度引いて見ているということだ。
 「自分が不条理のただ中にいる」と理解しながら、それでもなお何かを信じたいと思う。
 そこにこそ、倫理の原点がある。

 滑稽の中には、敗北の痛みと、観察する知性の両方が同居している。
 たとえ凹んでも、どこかで「いや、これはただの確率の揺れだ」と理解している。
 その理解があるかぎり、人は世界の中で自分を失わない。
 逆説的だが、滑稽さを笑える人ほど、倫理的なのだ。

 1億分の1で生まれ、100分の1で凹む。
 その矛盾を笑うことができたなら、すでに人生の半分は赦されている。
 なぜなら、笑いは絶望の余白からしか生まれないからだ。
 滑稽であることを恥じるのではなく、観察する勇気を持つこと。
 それが、偶然の世界に倫理を持ち込む、唯一の方法ではないだろうか。