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読書日記と哲学がメインです(毎日更新)

なぜ働いていると本ばかり買いたくなるのか

働いていると、本ばかり買いたくなる。これは一種の強迫観念のようなものだ。通勤の途中で目にした広告の書名を、ついスマホにメモしてしまう。昼休みにはネット書店をのぞき、帰り道に本屋の明かりがあれば立ち寄らずにいられない。疲れているはずなのに、財布の口を開かせるのは、むしろ労働の疲労そのものだ。労働によって奪われた時間と意味を、私は本を買うことで取り戻そうとしているのだろうか。
労働とは、制度化された時間の受け渡しである。そこには形式が優先し、意味は後景に退く。出勤時刻、会議の議題、上司の指示、顧客の要望。これらは「なぜ」よりも「どうやって」を強調する。私は意味を問うことを禁じられ、形式に従うことを強いられる。その従順のなかで失われるのは、「生きること」と「考えること」をつなぐ回路である。
しかし人間は意味に飢える存在だ。意味を奪われ続けると、無意識のうちに「意味の欠片」を求め始める。本を買うことは、その飢餓に対する即時的な反応である。買った瞬間の本は、まだ意味の可能性に満ちている。読む前の本は、無限の「誤配の可能性」を宿す。そこには「自分の考えを裏切ってくれるかもしれない」という期待と恐れが同居する。私はその一冊に、自分の労働では決して得られない種類の「誤配された意味」を託すのだ。
ここで重要なのは、私は必ずしも「読むため」に本を買っているわけではない、という点だ。買った本を読まないことすら、実は一種の実践なのである。積読の山は、読まれなかった可能性の墓場ではなく、むしろ「読まなかったことによって生き残った可能性」の倉庫だ。本を読むことで閉じられる可能性がある一方で、読まずに積んでおくことで無限に保持される可能性がある。労働が私から可能性を奪い去る営みであるならば、積読はその反対に、可能性を温存し続ける行為となる。
だが、この欲望は社会的には正当化されやすい。本は「浪費」と呼ばれにくい。服や家電なら無駄遣いだと糾弾されるが、本なら「教養」「自己投資」と言い訳できる。つまり、本は「罪悪感のない消費」を体現する商品である。私はこの抜け道を巧妙に利用している。制度的な労働によって疲弊しながら、制度が認めてくれる唯一の浪費=本購入を通して、自分を慰めているのだ。
しかし、この「無罪の消費」には深い皮肉が潜んでいる。本を買う行為は制度への反抗ではなく、制度に組み込まれた消費の一部にすぎない。働いて稼いだ金で本を買い、その代金は出版社と流通と著者を潤し、私はまた働く。つまり「労働―消費―再労働」の輪のなかに閉じ込められているのである。私は自由のために本を買っているつもりが、実際には「制度が用意した自由」を消費しているにすぎない。
だが、それでも私は本を買う。本を買わずにはいられない。なぜか。そこには「形式にとって誤配であれ」という読書日記アプローチの逆説が潜んでいる。形式に従わされる労働に抗するには、誤配しかない。誤配とは、予定調和を壊し、制度の盲点を突く力である。本を買うことは、読まない可能性すら含めて、意味を誤配する行為なのだ。制度の時間を形式的に過ごした後に、私は誤配を渇望する。その誤配のかけらを、本という形で手に入れずにはいられない。
積極的自由を標榜した思想家たちは、「自らの意志で選ぶ自由」を強調した。だが私にとって本を買う自由とは、意志の結果ではなく、むしろ「意志の誤配」である。本屋で偶然出会ったタイトル、表紙の色、帯のコピー、そんな些細なきっかけで意志はかき乱され、予定調和の消費計画から逸脱する。その逸脱こそが、働くことによって失われた自由の最後の残滓なのだ。
もちろん、財布は軽くなる。積読の山は崩れ落ちそうになる。合理性だけで考えれば、本など買わず図書館で借りればいい。しかし私はそれをしない。なぜなら、図書館は「読む」という一点においては優れているが、「買う」という誤配を欠いているからだ。図書館で借りた本には、所有の偶然性、未来への余剰、読まない自由がない。本を買うことでしか得られない「読まない可能性」が存在する。
だから私は働き続ける限り、本を買い続ける。買わずにはいられない。働くことが意味を奪い去る営みである以上、私は意味の誤配を買い足し続けるしかないのだ。そこに倫理があるかと問われれば、ない。むしろ「倫理は形式の盲点に宿る」のだとすれば、本を買う行為そのものが倫理の盲点に立っているのだ。
では、問いを反転させてみよう。
――私は「働くから本を買う」のだろうか。
それとも、すでに「本を買うために働いている」のだろうか。