はてなブログ大学文学部

読書日記と哲学がメインです(毎日更新)

沈黙とアフォーダンス

沈黙するということは、単に声を発しないということではない。沈黙には、他者に「話させる」力がある。たとえば会議の場で、誰かが意図的に黙るとする。すると、空気が変わる。静まり、緊張が生まれる。その沈黙は、言葉の不足ではなく、沈黙自体がアフォード(誘発)しているのだ。「何か話さなければ」と人を促し、場を動かす力をもつ。沈黙は、受け身のように見えて、実は極めて能動的な装置である。

ジェームズ・J・ギブソンが「アフォーダンス」という言葉で示したのは、環境が生き物に対して与える「行為可能性」だった。椅子は「座ること」をアフォードし、ドアノブは「回すこと」をアフォードする。けれど沈黙はどうだろう。沈黙は何も形を持たない。だが、確かに人を動かす。沈黙は「話すこと」を誘い、「考えること」を強いる。つまり、沈黙とは人間的な相互作用における見えないアフォーダンスなのだ。そこに誰かが存在するだけで、沈黙は新たな力を発揮する。

人は、話すことと考えることを同時にできない。これは単純な真理だ。話すという行為は、思考を言葉の流れに乗せることを意味する。つまり、思考が沈黙という非線形の領域から、言葉という線形の回路へと変換される瞬間である。話すとき、私たちはすでに「考えること」をやめ、語りの形式に従っている。思考は沈黙のうちに起こり、言葉は沈黙のあとに出てくる。沈黙を抜きにして語ることはできない。

ここに「読書日記アプローチ」との共鳴がある。読むという行為もまた、沈黙のアフォーダンスに満ちている。読むことは、書かれた言葉に即座に応答せず、あえて沈黙を保ち、内側で言葉を熟成させる時間をもつことだ。読書は、発話の衝動を抑え、思索を育てる沈黙の技法である。誰かの言葉を読むとき、私たちはその言葉の外側に広がる「言われなかったこと」「言葉にならなかった余白」に触れる。その余白こそが、読む者を考えさせる――まさに沈黙が思考をアフォードしているのだ。

読書日記とは、沈黙のなかで生まれた言葉の痕跡である。読んでいるあいだ、私たちは黙っている。けれどその沈黙の奥では、言葉が波打ち、問いが芽生え、次第に形をとっていく。やがてその思考が、日記という形でふたたび言葉へと変換される。読むことと書くことのあいだには、必ず沈黙の層がある。この層を飛ばすと、読書はただの情報摂取に堕する。沈黙を挟むことで、読むことは「自分の言葉で言い直すこと」へと変わる。沈黙とは、読書の倫理的条件なのだ。

沈黙はときに不快である。人は沈黙に耐えられない。会話が途切れると、すぐに何かを埋めたくなる。沈黙が続くと、焦りが生まれる。沈黙がアフォードするのは、まさにその「焦り」だ。人は無音に耐えられず、言葉を求める。けれど、その焦りこそが思考を深める契機にもなる。なぜ沈黙が不安なのか。なぜ言葉が必要なのか。その問いが沈黙の内側でゆっくりと熟していく。沈黙は、単なる空白ではなく、問いを呼び込む場である。

一方、話すことは別のアフォーダンスを持つ。話すことは、沈黙が開いた空間を埋める行為だ。話すことで人は自分の立場を確定し、関係のなかに位置を得る。言葉は、世界との距離を測るための道具でもある。だが、発話のアフォーダンスは「共有」を志向するあまり、しばしば沈黙のもつ深さを消し去ってしまう。言葉は他者との橋をかけるが、同時に思索の余白を奪う。つまり、話すことは「他者への接近」をアフォードするが、「自己への沈潜」を遮る傾向を持つ。

だからこそ、沈黙と発話のあいだには、繊細なバランスが必要だ。沈黙が長すぎれば関係は途切れ、言葉が多すぎれば思考が浅くなる。読むこと、書くこと、語ることのリズムを保つには、沈黙の配置が決定的に重要だ。読書日記アプローチは、この「沈黙の配置」を実践的に探る営みでもある。読書の沈黙、思索の沈黙、書く前の沈黙、書いた後の沈黙――それぞれの間に異なるアフォーダンスが働く。読者はその誘発のなかで、自らの思考を微調整しながら、他者の言葉と共鳴していく。

沈黙には、もうひとつの側面がある。それは「倫理」である。沈黙するとは、語る権利を保留することであり、言葉の暴力を避けることでもある。誰かをすぐに断じない、何かをすぐに結論づけない、その姿勢のなかに倫理が宿る。沈黙とは、他者に「考える時間を与える」行為でもある。対話のなかで相手が考える余地を与えること――それは沈黙の最も深いアフォーダンスだ。沈黙する者は、相手を信頼している。すぐに埋めない空白を残すこと、それ自体が信頼の証なのだ。

この意味で、沈黙は「思考の公共性」に関わる。公共的な場での言葉は、しばしば即時的な反応に支配される。だが、本来の思考とは、すぐに言い返さない、あえて沈黙して受け止める勇気を要する。読書日記アプローチが重視するのも、この「思索の遅延」である。読むこととは、すぐに意見を形成せず、しばらく沈黙してテクストを抱えることだ。その沈黙のなかで、他者の言葉が自分の内に沈み、やがて自分の言葉として再生される。読むとは、沈黙を媒介にした言葉の循環である。

沈黙を欠いた言葉は軽くなる。軽い言葉は他者に届かない。沈黙を通過した言葉だけが、重さと響きを持つ。重さとは、思索の時間が凝縮された痕跡である。沈黙を経ない発話は、情報にはなっても意味にはならない。沈黙が言葉に意味を与える――その逆ではない。だからこそ、私たちは時に、あえて黙ることを選ばなければならない。黙ることは思考を止めることではなく、思考の形を整えるための行為である。

読書日記を書くということも、沈黙の再配列にほかならない。読書中の沈黙、思索の沈黙、書く直前の沈黙――それらを経て、最終的に紙の上に「一つの声」が現れる。その声はすでに沈黙の記憶を帯びている。沈黙の深さが、そのまま言葉の厚みになる。沈黙とは、書くことの母体であり、思索の胎内である。

では、私たちはいま、どんな沈黙を選ぶことができるだろうか。
私たちの周囲には、あらゆる音と情報が溢れている。だが、沈黙は依然として残っている。沈黙することによってしか開かれない思考の領域、語らないことでしか触れられない感情がある。沈黙は、単なる消極的な態度ではなく、世界と新しい関係を結ぶ方法である。沈黙は、私たちに「何かを語らせる」力を持つ。そしてその力に耳を澄ませるとき、言葉はようやく、沈黙から生まれたものとして息をする。

沈黙は、読書のはじまりであり、思考の回復であり、言葉の約束である。沈黙するとは、語りを待つことだ。では――いま、私たちはどんな沈黙のなかで、どんな言葉を待っているのだろうか。

 

nainaiteiyan.hatenablog.com

 

nainaiteiyan.hatenablog.com

 

nainaiteiyan.hatenablog.com

 

nainaiteiyan.hatenablog.com

 

nainaiteiyan.hatenablog.com