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選別の美学

つづきを展開

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私たちは、毎日、選んでいる。選びながら、気づかぬうちに何かを排除している。きれいなもの、やさしいもの、整ったもの、可愛らしいもの――それらを「好む」という名のもとに選び取ることが、いつしか「美の習慣」となっている。だが、その裏側で、見たくないもの、汚いもの、不快なもの、乱れたものは、静かに世界から押し出されている。私はその過程を「選別の美学」と呼びたい。

SNSを開けば、無数の動物写真が流れてくる。猫が丸まって眠り、犬が笑うように舌を出し、小鳥が光に包まれて羽ばたく。そこにあるのは無垢の世界であり、誰も傷つかない風景だ。だが、私はその「無傷さ」に不安を覚える。なぜなら、その美しさはいつも、何かを見ないことで成立しているからだ。たとえば、老いた動物の体の汚れ、死の匂い、痛みの瞬間。それらは画面に現れない。無垢は、排除の技術によって維持される幻想である。

「選別の美学」とは、醜さや痛みを拒む文化的態度のことだ。メアリー・ダグラスが『汚穢と禁忌』で言ったように、「汚れとは秩序を乱すもの」である。現代の「美しさ」は、その秩序を保つための制度でもある。インスタグラムのフィルター、美容医療、ウェルビーイングの言説、動物のかわいさ――これらはすべて、秩序を乱すものを可視化しないという点で共通している。美はいまや「可視化の倫理」によって構築されており、その倫理は、何を見せないかという選択によって支えられている。

この「見せない文化」こそ、現代のソーマ的統治の表情のひとつである。フーコーが言う生政治とは、身体や生命を直接的に統治する力のことだが、その統治はもはや刑罰や暴力の形では現れない。むしろ、「きれいに整えたい」「健康でありたい」「癒されたい」といった自由の形式をとって人々を従順にしていく。私たちは、清潔で安全な空間を自ら選び取ることで、権力の回路に身体を差し出している。選別は強制ではない。むしろ「自分のための自由」として機能する。その自由の中で、私たちは汚れを遠ざけ、痛みを見ない訓練を受けている。

動物写真を好む人々が皆、意図的に残酷であるわけではない。むしろ逆だ。彼らは優しい。彼らは「癒し」を求め、穏やかな世界を作ろうとしている。その善意こそが、無垢の暴力を生み出す。スーザン・ソンタグが指摘したように、美しいイメージはしばしば他者の苦痛を覆い隠す。無垢な風景の背後には、常に「見ないことによる快楽」が潜んでいる。私たちは、他者の痛みを感じないことで幸福を維持する。優しさは、痛みを見ないという形でしか存在できないのだ。

「選別の美学」は、単なる趣味や好みではない。それは、感覚の政治であり、倫理の秩序である。誰もが「美しいもの」を選ぶとき、同時に「汚いもの」を排除している。汚いとは何か。それは「文脈を乱すもの」だ。貧困、老い、病、障害、死、社会的弱者――これらはしばしば「空気を壊すもの」「癒しを妨げるもの」として沈黙させられる。結果として、社会は「美しく保たれた」状態を維持する。しかしその美は、無数の見えない排除によって支えられている。美しさとは、しばしば暴力の形を変えたものだ。

私は、動物の無垢さよりも、その背後にある「見えない汚れ」の方に惹かれる。そこには、秩序からこぼれた生の気配がある。たとえば、片耳の欠けた猫、病に冒された犬、羽を失った鳥――それらは「きれいではない」かもしれないが、そこにこそ倫理の余地がある。汚れたものを見ること、壊れたものに触れること、それは秩序に抗う行為である。汚れとは、社会の秩序が排除したものの痕跡だからだ。汚いものを見ようとする眼差しは、制度の美学に抗する小さな抵抗である。

私はときどき思う。もし誰もが「きれいなもの」だけを見たいと願う社会になったら、その社会はどうなるのだろうか。そこでは、痛みや醜さや不正義は「見えないもの」として処理され、やがて存在しないことになる。現実が「見たくないもの」から構成されていることを忘れた社会は、やがて自分の内部の醜さも認識できなくなる。倫理とは、きれいなものを愛でることではなく、汚いものを見ても目を背けない力のことではないか。

選別の美学は、いまや日常の呼吸のように浸透している。SNSアルゴリズムは私たちの好みを学習し、私たちは好みによって世界を整える。だが、その整えられた世界は、見たいものしか見えない閉じた鏡である。癒しや可愛さは、いつの間にか現実との接触を奪う装置になっている。可愛いものばかりを愛でる文化は、他者の痛みを想像する力を失わせる。やさしさがやさしさを無力化する。これが「無垢の暴力」の時代であり、選別の美学が支配する世界だ。

けれども、希望はある。なぜなら、あなたが「この美しさの裏に何かがある」と感じた瞬間、それはすでに抵抗だからだ。違和感は倫理の始まりである。誰もが「癒し」に酔うとき、その癒しの構造に痛みを感じる者がいる。その痛みこそが、感覚の政治に抗う微細な倫理的感受性だ。

選別の美学の外に出ることは難しい。私たちは皆、清潔さと快適さを望む。だが、ほんの少しだけその秩序を乱してみること――見たくないものに視線を向けること――そこに倫理の可能性がある。美とは、本来、世界の痛みを受け止める力のことだった。いま必要なのは、「美しいもの」を増やすことではなく、「美しさからこぼれ落ちたもの」を見る勇気ではないか。

選別の美学が支配する世界で、なおも「汚れ」を見つめること。それは小さな抵抗であり、倫理の呼吸でもある。私たちが美の名のもとに排除してきたもの――それらに目を向けるとき、世界は少しだけ再び生き始めるのではないか。