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社会構造と承認

こちらのつづき

 

nainaiteiyan.hatenablog.com

 

こちらをまとめると、

「誤承認」も「不正義」も、根本的には資本主義の「経済構造」にあるフレイザーは考えているものの、資本主義の経済構造を変えることは現実的に考えて「不可能」であるため、「誤承認」と「不正義」の双方を解決に導き出せる「案」を考えることが肝と提案した。

 

議論は「承認の要求の正当性について」の方向へ。

何をもって「適切な承認の要求」とするか。その基準はなにか。

 

フレイザーは「普遍化は不可能」とし、議論が必要とした。

しかし、それを実現する(基準の明確化)には「議論」の交換が必要であったが、「循環論法」に陥る、と書いたところで1000文字を超えたために記事をストップした。

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しかしながら、フレイザー循環に陥ることは、裏を返せば再帰的な特徴を持つ、と述べた。

(再帰的の具体例:「自己言及」⇒自分を説明するときに、自分を「参照」すること。つまりは、客観的でなく、自分を説明するときに「主観 = 自分」への参照に頼ること。)

 

別の視点で見れば、循環的な秩序、相互作用を伴うこの文化体系には「外部からの押し付けられるもの」でなく、少なくとも、民主主義としての機能は保持されていると見ている。

 

 

ここまでで、前回の疑問点は解消された。

次に、承認要求の基準など、どう議論すれば良いのか、具体的な話に入っていく。

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前述した通り、フレイザーによれば、承認の要求を判定することは議論を通すことによってのみ生まれるとする。

それは、哲学者による抽象的な議論によってではない、と主張する。

経済構造がどのように社会的地位の秩序、文化的地位の秩序に影響を与えていくのか、見極めることが重要とした。

 

言い換えると、文化的なものが経済構造とどの程度重なりあっているかの区別とも言える。

 

フレイザーは2つの世界を想定する。

・部族社会のように、政治経済は文化的構造に作用している世界

・前者と対極にある世界

 

部族社会的な世界においては、社会的地位の秩序が文化的構造と直列しているため、不公正な分配は誤承認による。誤承認がそのまま経済格差⇒不正義となる。

後者においては、経済構造がそのまま社会的地位付けをする。誤承認は社会的地位付けが不当の場合となる。

経済格差は社会的地位付けが不当に行われた場合によるため、不正義⇒経済格差となる。

 

ここで分かるところは、互いの世界は鏡のような様相を呈していることである。

言い換えれば、想定した2つの世界は、青文字で強調したように、構造的に対極関係にあることがまずは示された。

 

つまりは、文化的構造による社会的地位付けと、経済構造による社会的地位付けには少なくとも連関性があるということである。

つづく