こちらのつづき
さっそく本題に入る。
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別の記事に書いた通り、ここで書いていく「承認」とはマズローの「承認欲求」のお話ではなく、ヘーゲル『精神現象学』における「承認」のことである。
以前の記事でフレイザーが語ったように、時代の変容とともに、経済状況と社会的地位の秩序も代わり、社会は承認や再分配を必要とした。
ホネットも、ヘーゲル哲学の「承認」が時代の変容とともに効力を失い、承認について「再構成」する必要があると判断した。
従って、以降はホネットによるヘーゲル哲学の再構成をまとめていく。
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ホネットによれば、承認には3つの形式があるとした。
[愛、法(権利)、価値評価]
まずホネットは法の観点から承認論を展開する。
ホネットによれば、マキャベリとホッブズはそれぞれ異なる論じ方をしたものの、導き出された帰結は同じであったとした。
それは、二人とも社会的存在を「自己中心的な人間の集まり」と想定していたからだとする。
僕の解釈では、それは、人間は本来自分のことしか考えていないと捉える「性悪説」に従う考えであると言える。
自然法というものがある。
それは、人間の本性、理性に基づいて普遍的に守られるべき不変の法、とされる。
マキャベリらの思想に従えば、人間の本性は「悪」であるので、「法」で縛り上げ、「否定的な自由」を作り出し、人間社会を管理していく、という発想になるだろう。
ホネットによれば、ヘーゲルはその「目的合理的」として捉える彼らの社会哲学に異を唱えたとする。
それは「原子論」的でもあるとホネットは付け加える。
人間を原子「無機的(=精神のない状態)な存在」的な主体として考えれば、
原子は分子になり、分子量が増えるとマクロへと展開されていくように、
そこで想定されるマクロ、つまり人間社会は無機的であって、単なる「主体の連関」となり、「フィクション」になるとされる。
そのように想定された社会は実態に則さない。
ヘーゲルは人間の本性を「非人倫的な統計」と定義し、マキャベリらが想定して帰結された無機的な社会、人間の共同体は、人倫的に統一された集団とはなり得ないと考えた。
であるので、ヘーゲルは人倫的総体としての共同体を理論的に展開できるのか、ということを試みた、とホネットはのべる。
1000文字をこえたので一旦ストップにする。
つづく