こちらのつづき
議論が複雑になってきているので、翌日に読むと文章に粗さを感じる。
その場その場で少しづつ訂正や加筆をしていきたい。
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前回をまとめると、承認の要求に対する判定を行うには議論の交換が必要であり、そのプロセス・メカニズムには循環論法が孕むものの、「再帰性」が含まれているため、民主主義の機能は保持されているとした。
その後、議論の材料をあぶり出していくためにフレイザーは2つの社会構造を想定した。
文化的価値の地位がそのまま経済構造(=格差、不正義による配分)に影響を与えるとする世界、もう一方はその対極にある世界、すなわち文化的地位がそのまま経済構造に影響を与えないと想定する世界である。
帰結としては、文化的様式と経済的様式がどのくらいの割合で存在していようが、最終的には不正義による不当な配分が行われることが示された。
以上が前回の記事のまとめである。
次に、フレイザーは昔と現代を比較しながら承認の要求に対する基準付けの検討を行う。
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フレイザーによれば、資本主義以前の世界においては、どういう親族を持つかによって文化的地位付けがなされ、結果的に社会的ヒエラルキーが形成され、ヒエラルキーの頂点にいる者たちが「一元的」に倫理観を定めることによって、不正義が発生したとする。
下層の者たちは権威に対抗するための原理的土台は存在しない。
つまりは、昔は経済的状況に左右されずに、個人の立ち位置は社会的地位付けの度合いによって決まった。
しかしながら現代ではその原理は当てはまらないとフレイザーは指摘する。
経済構造がどのように文化的価値パターンに影響を与えるのかは、各々の「社会的性質」にかかっており、社会の性質によっては経済構造が文化的価値のパターンに影響を与え、不公正な配分(=不正義)が発生する、と指摘する。
ジム・クロウホウ法の廃止もすり抜け、誤承認が当事者の生活空間に害を与えたアメリカを想定するならば、経済構造がそのまま個人の社会的地位付けに影響を与えるとはいいがたく、すくなくとも文化的価値のパターンも何らかのメカニズムを備えている。
どのようなメカニズムかは前述した通り「社会的性質」に依拠する。
それは、前回や前々回で書いてきた通り、再配分も承認も両方必要とするフレイザーの一貫した主張に則している。
つまりは、「文化」と「経済」は必ずしも一致しないとフレイザーは考える。
1000文字を超えたので一旦ストップしたい。
つづく