こんばんは
今月はひたすら難解なポスト構造主義の本を読んでいます。
そのため、自己啓発や最近の人気本についてのレビューがなかなかできないのですが、僕にしか発信できないようなことを書かないと、なんか面白くないな。そう思い、とりあえず日々考えていることを記事にすることにしました。
本題です。お話に関してはフィクションです。
僕と、僕の彼女の山田エリーゼという方のお話の続きです。
さて、一瞬で人間をコピーできる機械ができました。
記憶も何もかも、物質的には同じ配列となっています。
さて、そのコピーされた山田エリーゼ(仮)は何者なのか。というお話です。
例えば、ちょっときついお話ですが、誰も知らない場所で山田エリーゼさんが死んで、その1秒後に(仮)のエリーゼさんを作れば、山田エリーゼさんは死んでいないことになるのか?というお話になるんですが。
ただ、直観で言えば、それは本物ではないですよね。
何故なら、生きている状態でコピーしても、山田エリーゼさんは山田エリーゼさんの意識を持っているでしょうし、(仮)のエリーゼさんの意識が本物のエリーゼさんの意識に成り得るのか?いや、そうはいかのくんせいってお話なんですよね。(ここ笑うところです)
直感でいえば、というお話です。あくまでもです。
つまり、究極の問いが生まれます。
「意識には差異があるのか」
これが「唯一無二」と「差異」の究極の問題です。
さて、意識の「差異」とは何か。
それはこのコピー問題でヒントを得られるはずです。
面白いのは、完璧に遺伝子の配列、物質などが一致したコピーを作っても、感覚的にはただのコピーに過ぎない。ただ、客観的に見れば完璧に一致しているので、そこに物質的な意識の「差異」はないですよね。
ただ、主観では「差異」は明らかに、感覚としてわかる。このギャップは何?
唯物論の弱点はここにあるのでは。
心とは何だ?という問いを理論立てて考えていくよりも、僕は思考実験のいほうが実用的というか、現実的なのかなと思います。
ああ、やっぱりこういうお話は面白いですね。
で、最後に。
矛盾。パラドックス。
これは、完璧な理論体系では発生しないと思うんですよね。
言語上のミスです。
つまり、コンピュータでいったらバグ。
つまり設計ミスなのです。
人間は、言語の設計に何か欠点がある。
主観、客観。実は当たり前のように使っている言葉にも欠点が潜んでいるかもしれない。
哲学者はそのプログラムの「設計ミス」を探すのが仕事だと思います。
パラドックスがあるということは、良い意味では、まだ改良の余地があるということです。