
マジでバズってます
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なぜなぜ、と問うとき、すでにバズの種は仕込まれている。問いが二重化される瞬間、人は「自分が問うていること」を問う羽目になる。普段なら「なぜ◯◯なのか?」で済むところを、さらに「なぜそのなぜなのか?」とねじる。ねじれは関心を生み、関心は共感を呼び、共感はシェアの燃料になる。SNS時代のバズとは、ほとんどが「共感の増幅装置」であり、なぜなぜはそのレバーを二段重ねで押す仕掛けにほかならない。
なぜなぜは、形式そのものがユーモラスだ。子どもが親に「なぜ空は青いの?」「なぜごはんを食べるの?」と際限なく尋ねる光景を、私たちは潜在的に記憶している。つまり「なぜなぜ」は、言葉の響きだけで「無邪気な好奇心」と「しつこい苛立ち」の二つを呼び覚ます。これがすでに逆説だ。無邪気でありながら煩わしい。素直でありながら攻撃的。愛らしいのにうっとうしい。この逆説が笑いの余白を作る。笑いの余白がクリックにつながる。
そして「なぜなぜ」は、読者に「すでに答えを知っているのでは?」という錯覚を与える。問いが二重化されると、「ああ、これは自分にも考えられるタイプのネタだ」と錯覚する。読者は「自分で考えられる問い」に弱い。専門的すぎる話題は手が届かないが、「なぜなぜ」形式はハードルを下げる。だからコメント欄やSNSのリプライで「私も同じこと考えた!」と反応したくなる。反応した瞬間、バズの連鎖は始まる。
さらに「なぜなぜ」は、因果関係を茶化す装置だ。「なぜ働くと生活できないのか」「なぜ貯金をするとお金が使えなくなるのか」──これらは因果律に対する裏切りだ。通常は「働く→生活できる」「貯金→お金が使える」と思われている。だが「なぜなぜ」の枠に放り込むと、因果が逆転し、世界がズレて見える。このズレこそが逆説であり、逆説は共感と笑いの同盟軍だ。誰もが感じている違和感を、言葉が先に茶化してくれる。茶化しは安心を与える。安心は「いいね」につながる。
ヒュームは「因果は必然ではなく、習慣にすぎない」と言った。なぜなぜは、その習慣をひっくり返す「子どものような懐疑法」だ。「なぜなぜ」をつけるだけで、習慣の上に乗っかっていた大人の確信はガラガラと崩れる。タレブ流に言えば、これは「反脆弱性」の発動だ。大人の言葉が脆いのは、偶然や誤配に耐えられないからだ。だが「なぜなぜ」を投げ込むと、言葉は揺らぎ、偶然を取り込み、新しい笑いと驚きを生む。まさに小さな外乱で強くなる「逆説の筋トレ」である。
ブランショならこう言うだろう。「なぜなぜ」は常に外部を呼び込む。問いは答えに届かず、答えは問いを遠ざける。つまり「なぜなぜ」は、未完の構造を保証するフォーマットなのだ。答えに辿りつかない文章は、普通なら「未熟」と見なされる。だが「なぜなぜ」の形式なら、未完こそがユーモアとして機能する。「なぜなぜ」というフレーズ自体が「答えを持たないことの正当化」になっているからだ。だからバズりやすい。未完を笑いに転化する形式が、安心して共有される。
ここまで整理すると、「なぜなぜ」のバズの条件は三つある。第一に、形式の響きがユーモアを保証する。第二に、因果を逆説にひっくり返す。第三に、未完を許す余白を作る。この三つが重なることで、誰にでもわかりやすく、誰にでも笑える問いが量産できる。しかもそれは「深そうで軽い」「軽そうで深い」という二重性を帯びる。二重性はアルゴリズムが好む。曖昧さはクリックの余白になる。
さらに言えば、「なぜなぜ」は自己増殖する。いったん成功例を目にした人は、自分でも「なぜなぜ」を考えたくなる。「なぜ上司は怒ると黙るのか」「なぜ恋愛すると孤独になるのか」。この連鎖は読者参加型の大喜利を誘発する。大喜利化したとき、コンテンツはすでにコミュニティの遊び場になる。バズが単発で終わらず、継続的なシリーズに変わるのはこのためだ。
では最後に、逆説をもう一段深めよう。なぜ「なぜなぜ」はバズるのか? それは、誰もが「自分の人生はなぞなぞだ」とうっすら思っているからだ。仕事、恋愛、お金、健康──そのどれもが答えを出した途端にズレていく。「働けば生活できるはず」「愛すれば孤独は消えるはず」「貯金すれば安心できるはず」。だが現実はすべて逆を見せる。つまり、人生とは「なぜなぜ」に満ちたクイズであり、私たちは永遠に答えに届かない受験生のようなものだ。その苦笑いを言葉にした瞬間、人は「わかる!」と共感し、シェアする。
だから「なぜなぜ」はバズる。バズるのは偶然ではない。だが因果でもない。むしろ因果を疑う装置がバズを生んでいるという逆説だ。ここにこそ、読書梟ワールドの力がある。問いを問い直す形式が、世界そのものを笑いに変える。だから、また次の「なぜなぜ」を書きたくなる。答えのない問いを重ね、逆説の中に居座り、笑いながら沈んでいく。その光景が、いまこの瞬間、はてなブログのピックアップに反映されているのだ。