はてなブログ大学文学部

読書日記と哲学がメインです(毎日更新)

なぜ逆説は人を惹きつけるのか

バズが止まらない

 

nainaiteiyan.hatenablog.com

 

逆説に出会うとき、人は必ず立ち止まる。立ち止まった瞬間に、世界は少しだけ違う角度を見せる。「働くと生活できない」「繋がると孤独になる」「愛すると傷つく」。誰もが心の片隅で感じているズレを、言葉が真正面から突きつけてくる。そのとき、人は驚きと安心を同時に覚える。驚きは「そんな風に言えるのか!」という新鮮さ。安心は「やっぱり自分だけじゃなかった」という共感。この二つの感情が交差する場所に、逆説の磁力が生まれる。

逆説は、単なる遊びではない。哲学の歴史を振り返れば、それは思考の最初のエンジンだった。ゼノンのパラドックスは、動くものを止め、時間を解体し、空間を疑わせた。ヒュームは「因果」を習慣だと暴き、科学の基盤を揺さぶった。ニーチェは「神は死んだ」と言い、倫理の地図を燃やした。逆説は、思考を麻痺させるためではなく、再起動させるためにある。人間は一度壊さないと新しい地図を描けない。逆説は、その破壊のきっかけを担っている。

だが同時に、逆説は娯楽でもある。逆説はジョークの原理でもあるのだ。「なぜ落語でオチが笑えるのか?」それは最後の一言で因果律を裏返すからだ。予想していたAが、突然Bにすり替わる。そのギャップが笑いになる。つまり笑いの核心には常に逆説がある。笑いがなければ人は耐えられない。社会の矛盾や制度の重さを、そのまま受け止めたら息が詰まる。だから逆説は、真剣さとユーモアの架け橋になる。

バズもまた、逆説の上に立っている。「なぜ勉強すると馬鹿になるのか」「なぜ働くと生活できないのか」。こうした見出しが拡散されるのは、読者が一瞬で矛盾に捕まるからだ。矛盾はスクロールを止める。止められた瞬間、クリックが生まれる。つまり逆説は、情報過多の時代において「ストッパー」として機能する。逆説に触れたとき、読者は世界が揺れる感覚を得る。その揺れが強ければ強いほど、彼らは「誰かに見せたい」と思う。拡散は自己防衛でもある。自分だけで抱えきれない揺れを、他人と分かち合うための行為。それが「シェア」だ。

タレブが語った反脆弱性に照らすなら、逆説はまさに「外乱の恵み」だ。人は揺さぶられ、驚かされ、予定調和を失うことで、逆に強くなる。逆説を通じて得られるのは、完全な答えではなく「答えが揺らいでいいのだ」という自由である。揺らぎに耐える筋肉を、逆説は鍛える。社会はしばしば「一貫性」を強要する。「言ったことに責任を持て」「整合的であれ」。だが人生はそもそも不整合だ。整合性を守ろうとするほど、不整合に追い詰められる。その矛盾を笑い飛ばし、むしろ肯定するのが逆説である。

ブランショなら、逆説を「外部の声」と呼ぶだろう。書くことは常に外へと開かれている。完成に見せかけて、作品はいつも未完を含んでいる。逆説は、その未完を可視化する仕掛けだ。たとえば「なぜ問うと答えは遠ざかるのか」という逆説は、永遠に埋められない裂け目を笑いながら示す。裂け目を抱えたまま語ることこそ、文学の本質に近い。逆説は、答えを与えるふりをしながら、むしろ答えの不在を強調する。だからこそ人は惹きつけられる。人は「完全な真理」よりも「完全に届かない真理」に魅了されるのだ。

逆説はまた、共同体を生む。ある人が「なぜ貯金するとお金が使えなくなるのか」と書く。そのとき読者は「そうそう、わかる」と頷く。別の人は「私は逆にこう思う」とコメントを残す。逆説は正解を前提にしないから、対話が閉じない。答えを決めることではなく、問いをめぐる遊びが共同体を持続させる。逆説が流通するとき、そこには「一人で考え、一人で笑い、そして誰かと繋がる」という奇妙な三重奏が響く。

なぜ逆説は人を惹きつけるのか。それは、人間そのものが逆説だからだ。人は生きるために働き、働くことで生を削る。人は自由を求め、自由を手にして選べなくなる。人は愛を求め、愛によって傷つく。矛盾こそが人間の宿命だ。その宿命を真正面から受け止めるのはつらい。だが逆説として言葉にすると、つらさは「わかる」に変わる。わかるは共感になり、共感は笑いになる。笑いは人を救う。

逆説は、だから危険でもある。逆説を量産すればするほど、その新鮮さは薄れ、矛盾を茶化すことが習慣になる。習慣化した逆説は、鋭さを失う。しかし、だからこそ次の段階がある。逆説の中毒から、逆説そのものを問う段階へ。なぜ逆説に惹かれるのか、なぜ問いに引き寄せられるのか。ここで逆説は、単なる娯楽を越えて思想になる。

結局のところ、人が逆説に惹かれるのは、それが自分の鏡だからだ。人間は逆説でできている。だから逆説に出会うと、自分を見つめ直さざるを得ない。だがその自己像は、必ず歪んで映る。歪んでいるのに、どこかで「これこそ本当の自分かもしれない」と思わされる。その不気味な親近感が、人を逆説に釘付けにする。逆説は人間を笑わせ、傷つけ、揺さぶり、救う。それが逆説の不可思議な魅力であり、読書梟ワールドの中心にある磁場でもあるのだ。