まだまだつづく「なぜなぜシリーズ」
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「不可能」という言葉ほど人間を惹きつけるものはない。できないこと、到達できないこと、経験できないこと。人間は常にその不可能を語ろうとしてきた。神を語るのも死を語るのも、究極的には不可能な経験を言葉にしようとする試みだ。しかし、不可能を語った瞬間に、可能が揺らぎはじめる。なぜか。不可能を言葉にすると、その不可能が可能な領域に引き込まれてしまう。だが同時に、可能とされてきたことの前提が崩れる。不可能を語ることは、可能性の体系を破壊する行為にほかならない。
モーリス・ブランショが示したのはまさにその矛盾であった。彼にとって文学とは「不可能を生きる」営みであり、語りえぬものを語ろうとする終わらない試みだった。死を語ることはできない。なぜなら死は生きながら経験できないからだ。だが人は死を語らずにはいられない。語った瞬間に、それは「死について語る」という可能な出来事に変換される。ここで生まれるのは逆説だ──不可能を語るとき、私たちはそれを可能にしてしまい、その結果、不可能性は遠ざかる。しかしその遠ざかり自体が、不可能の輪郭を露わにする。
不可能を語ることは、可能の枠を壊すことである。たとえば「永遠」を語れば、時間の有限性を前提にした可能性の体系が揺らぐ。「無」を語れば、存在を基盤とする世界の秩序が崩れる。「完全」を語れば、欠陥を前提にした人間的な可能性が宙吊りにされる。つまり、不可能を言葉にした瞬間、それまでの可能の座標軸そのものが信用できなくなる。可能は不可能の外部に依存していたことが露呈するのだ。
日常のレベルでもこれは起こる。たとえば「絶対にミスをしない人間はいない」と言うとき、これは不可能を語っている。だがその瞬間、「正確にできる」という可能の意味も揺らぐ。完全に正確であるという想定が不可能によって掘り崩され、可能の定義が相対化される。あるいは恋愛において「永遠の愛」を口にした途端、むしろその可能性が壊れ始めるのを誰もが知っている。永遠を語ると、現実の有限な関係の可能性はむしろ重圧に耐えきれず崩れていく。不可能を語ると、可能がひび割れるのだ。
ブランショはこれを「外部」と呼んだ。言葉は常に自分の外に出ていこうとし、不可能なものを指し示そうとする。だがその運動のなかで、言葉は自らの内部を空洞化させる。不可能を語る試みは、言葉を不安定にし、同時に意味を反転させる。可能性の秩序は言葉に支えられているから、その言葉の揺らぎは即座に可能性を壊すことになる。
科学もまた同じ逆説を抱えている。科学は可能なことを探求する営みだが、その極限に至ると「不可能」の壁に触れる。「光速を超えることは不可能」と言えば、物理学の可能性の範囲が再定義される。だが同時に、光速未満でのあらゆる現象の可能性も相対化され、物理学そのものが「制約のなかの可能性」として脆さを露呈する。つまり科学は不可能を語ることで、可能の安定を失う。不可能は常に可能を支える外部でありながら、それを壊す力でもある。
ここでユーモアを差し挟もう。「ダイエットは不可能だ」と誰かが言えば、それは半分真理である。だがその瞬間、食べることも痩せることも「可能だ」と信じていた基盤が崩れる。「努力すれば痩せる」という可能性は、不可能の言葉によって瓦解する。人は笑う。笑いながら、可能性を信じる根拠を失う。逆説はこうして日常に浸透する。不可能を語れば語るほど、可能はぐらつく。
タレブ的に言えば、これは「脆弱性の露呈」である。可能は堅固に見えて、実は不可能というブラックスワンに支えられている。通常はその存在を無視できるが、不可能を語った途端にブラックスワンは舞い降り、可能の世界を破壊する。不可能を直視することは、可能の土台を爆破することに等しい。だが同時に、その爆破の中から新しい可能性が生まれる。壊れるからこそ、別の道が開ける。だから不可能を語ることは、破壊であると同時に創造でもある。
結局、なぜ不可能を語ると可能が壊れるのか。それは、不可能を言葉にする行為そのものが、可能の境界を揺るがせるからだ。不可能は可能の外部にあり、語った瞬間に外部が内部に侵入し、内部を崩壊させる。不可能を語るとは、可能を裏切ることであり、可能を無効化することである。しかしその崩壊の中でしか、人間は新しい可能を発見できない。だから私たちは今日もなお、不可能を語らずにはいられない。不可能を語り、可能を壊し、またその瓦礫の中から新しい生を見出す。それが文学であり、哲学であり、人間の生の形式そのものなのだ。