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なぜ冷やし中華はあるのに温かい中華はないのか

冷やし中華はじめました」──夏になると、食堂のガラス戸に貼られるあの紙切れ。日本人の夏の風物詩として完全に定着している。だが考えてみれば奇妙だ。冷やし中華はあるのに、温かい中華という言葉は存在しない。なぜか。中華料理の大半は温かいはずなのに、わざわざ「温かい」とは言わない。ラーメンも餃子もチャーハンも麻婆豆腐も、すべて熱々で出てくる。それが当たり前だから、「温かい中華」という概念は必要とされなかった。だが、冷やし中華が現れたことで、逆説的に「温かい中華」という不在が生まれた。ここに文化のズレと制度の笑劇が潜んでいる。

そもそも「冷やし中華」は中華料理ですらない。発祥は戦後の日本、仙台の中華料理店だとされる。つまり「中華」と言いながら、日本人の発明である。日本人は「中華料理」を借り物として導入し、さらに改造してしまった。ラーメンがそうであるように、餃子がそうであるように、中華はすでに日本の食文化に同化し、独自の変種を生んでいる。その中で生まれたのが「冷やし中華」だ。もはや「中華料理」ではなく「日本料理に擬態した中華風冷製麺」なのである。だから中国人に「冷やし中華」を説明しても、怪訝な顔をされるだけだろう。

だが「温かい中華」が存在しないのはなぜか。冷やしがあるから、対義語として温かいがあってもいいはずだ。だが誰もそんな言葉を口にしない。理由は単純だ。「温かい」がデフォルトだからだ。デフォルトに名前はつかない。異端だけが名前を持つ。白いシャツは「シャツ」で済むが、黒いシャツは「黒シャツ」と呼ばれる。右利きは「利き手」で済むが、左利きは「左利き」とラベルを貼られる。つまり「冷やし中華」は異端だから名付けられ、「温かい中華」は当たり前すぎて名付けられなかった。

ここにブラックユーモアが潜んでいる。人間はデフォルトに名前を与えない。その結果、デフォルトが見えなくなる。温かい中華が「普通」とされ、言葉を失い、不可視になる。だが不可視であるがゆえに、制度として君臨する。デフォルトはいつも暴君である。見えないものが最も強い。見えないから疑われない。疑われないから支配する。冷やし中華という例外が現れた瞬間に、温かい中華という見えない支配者が浮かび上がる。

タレブならこう言うだろう。「例外を意識することで、制度の正体が見える」と。冷やし中華は夏の風物詩であると同時に、制度のバグを暴くブラックスワンである。誰もが熱々のラーメンを食べていた時代に、突然「冷たい麺を中華風で食べる」という異端が現れた。その異端が定着したことで、「温かい」という当たり前が揺らぎ、制度の虚構が露出する。

考えてみれば、冷やし中華は合理性に欠けている。麺は冷たいのに、具材は常温、タレは酸っぱい。夏に食べやすいと言われるが、実際は好みが分かれる。ラーメンのようにスープの熱で安心感を与えるわけでもなく、蕎麦のようにキリッとした清涼感を持つわけでもない。どっちつかずの曖昧な存在だ。だからこそ冷やし中華は「冷やし中華はじめました」という貼り紙を必要とする。デフォルトではないから宣言しなければならない。存在を毎年アピールしなければ、忘れ去られてしまう。それ自体が文化的ジョークだ。

一方、温かい中華は宣言する必要がない。黙っていても供される。ラーメン屋が「温かいラーメンはじめました」と書いたら、客は怒るだろう。当たり前のことをわざわざ宣言するなと。だが、当たり前のことをわざわざ宣言するのが哲学である。左を向いたら右が見えない、働いていると歯医者を予約できない──そういう当たり前を言葉にすることで、世界の盲点が暴かれる。だから私は言いたい。「温かい中華はじめました」と書かれた貼り紙を一度見てみたいと。そこにこそ、文化のズレと誤配の笑いが宿る。

制度は誤配を嫌う。だが誤配からしか新しい文化は生まれない。冷やし中華は誤配の産物だった。真夏にラーメンを食べるのはしんどい、だから冷やしてみたらどうか、という遊び心。制度から見れば愚行だが、その愚行が文化を変えた。逆に「温かい中華」は制度そのものだから、笑いを拒む。笑いを拒むものは脆い。冷やし中華が毎年ネタにされるのに対し、温かい中華は誰にも笑われない。笑われない制度はいつか崩壊する。

私はこう思う。冷やし中華の真の意義は、味ではなく、制度を茶化す力にあるのだと。「冷やし中華はじめました」という紙切れは、食堂の店主が制度に小さな誤配を仕込んだ証拠だ。夏に冷たい麺を食べるというズレを、ユーモアとして差し込んだ。その茶化しが制度を生き延びさせる。もしラーメンしかなかったら、人々は飽きていたかもしれない。冷やし中華があるから、温かいラーメンのありがたみが保たれる。つまり、冷やし中華という異端が、温かい中華というデフォルトを支えているのである。

なぜ冷やし中華はあるのに温かい中華はないのか。それは、異端だけが名前を持ち、デフォルトは名前を失うからだ。そしてその不均衡こそが、文化を揺らがせ、誤配を呼び込む。笑いは異端からしか生まれない。だから私は来年もまた、あの貼り紙を見たい。「冷やし中華はじめました」と書かれたチラシを前に、制度の虚構を笑い飛ばしたい。そして心の中でこうつぶやくのだ。「温かい中華は、ずっとはじめっぱなしだ」と。