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なぜ働くと生活ができなくなるのか

働くとは、生活のために金を稼ぐことだ。だが奇妙なことに、働けば働くほど生活は失われていく。朝から満員電車に押し込まれ、夜は残業で体をすり減らし、休日は疲労で寝るだけ。生活の糧を得るために働いているはずなのに、気づけば生活そのものが消えている。これは冗談ではなく、日本社会の構造的なブラックユーモアである。生活費は増えるが、生活は減る。お金は手に入るが、時間はなくなる。こうして「生活のための労働」が「労働のための生活」へと反転する。

誰もが経験しているはずだ。朝、目覚まし時計に叩き起こされ、急いで身支度を整え、電車に揺られてオフィスに向かう。その瞬間、生活は切断される。生活とは本来、自分のリズムで食べ、歩き、考えることだ。だが労働はそのリズムを奪う。昼休憩の45分が唯一の「生活的時間」として残るが、それすらコンビニの弁当で埋められ、スマホを眺めて終わる。夕方になれば会議、夜は残業。帰宅しても食事を作る気力はなく、コンビニで買ったものを口に流し込み、風呂に入り、ベッドに倒れ込む。こうして一日は「生活らしきもの」をほとんど含まないまま終わる。

笑えるのは、誰もそれを疑問に思わなくなることだ。「生活のために働く」というスローガンは、もはや空虚な言葉だ。実態は「働くために生活を切り売りする」に過ぎない。だが、それを制度は生活だと呼び続ける。健康診断、厚生年金、社会保険──制度的には生活が保障されていることになっている。だが現実には「保障された生活」とは、「制度に従属すること」とほぼ同義である。

このズレは、タレブの言う「見えていないリスク」に似ている。働くことで得られる収入や福利厚生は目に見える利益だ。だが、失われていく生活時間や身体の自由は不可視のコストだ。人々は目に見える数字にばかり注目し、見えない損失を無視する。結果、働くほど「生活のための資源」が蓄積される一方で、「生活そのもの」は消失していく。まるでカジノで勝ち続けている気になって、実はじわじわ破産に向かっているギャンブラーのようだ。

ここでブラックユーモアをもう一つ挟もう。企業の採用サイトには「ワークライフバランス」という言葉が並んでいる。だが現実には、ワークとライフは敵対関係にある。バランスを取るどころか、ワークがライフを侵食し尽くす。夜遅く帰宅して子どもの顔を見られない父親に向かって、「家族のために頑張っている」と言えるのか。家族と過ごす生活を犠牲にしてまで稼いだ金は、果たして生活のためと言えるのか。こうして「生活を守るための労働」は、「生活を破壊する労働」へと変貌する。

働き方改革という名の改革もまた、このブラックジョークを強化する。「残業を減らしましょう」と制度は叫ぶ。だが現実には、仕事量は減らない。むしろ効率化が強要され、短時間でより多くの成果を出すことを迫られる。結果、心身はより疲弊する。生活を取り戻すどころか、生活はますます細切れになり、断片的な「休息」が積み重なるだけになる。こうして制度は、誤配を排除しようとして誤配を増幅させる。

タレブ風に言えば、生活とは本来「冗長性」を持つものだ。何もせずに過ごす時間、無駄に思える散歩、予定のない午後。そうした余剰が人間を強くする。だが労働は冗長性を嫌い、効率化を求める。無駄を削ぎ落とした結果、人間は脆弱になる。生活の余白が消えたとき、人間はちょっとした揺らぎで壊れるようになる。風邪をひいただけで働けず、働けないことで収入が途絶え、収入が途絶えたことで生活が破綻する。生活を守るはずの労働が、生活をもっとも脆くする。

働くことで生活が失われるのは、決して個人の怠惰や選択の問題ではない。制度の構造そのものがそうなっているのだ。制度は「生活を守る」と言いながら、実際には「生活を従属させる」。住宅ローン、教育費、老後の資金。生活の不安を煽り、それを口実に労働を強制する。まるで「生活」という人質を取られているようなものだ。解放されるためには働き続けなければならない。こうして人は、自分の生活を守ろうとして、自分の生活を失っていく。

それでも笑うしかない。笑わなければやっていられない。働けば働くほど生活できなくなるという逆説を、ブラックジョークとして消化するしかないのだ。「生活費を稼いだが生活はない」というオチは、すでに社会全体が共有しているギャグである。SNSにあふれる「社畜あるある」がそうだ。人々は互いに笑い合うことでしか、この矛盾を受け止められない。笑いは最後の抵抗だ。

なぜ働くと生活できなくなるのか。答えは単純だ。制度が「生活」を餌にして「労働」を永続させるからだ。そして人間はその餌を食べ続け、自らの生活を空洞化させる。だがその空洞にこそ、誤配の余地がある。生活が失われたことを笑い飛ばすとき、初めて生活は別の形で蘇る。予定を破り、会議をサボり、電車を一本見送り、コンビニで立ち読みをする。そうした無駄で誤配的な行為にこそ、生活は潜んでいる。

生活を守るために働いてはいけない。生活を失いながらも笑えるように働くしかない。生活は制度に守られるものではなく、誤配から生まれるものだからだ。

なぜ働くと生活できなくなるのか。それは、制度が誤配を嫌うからだ。そして誤配を嫌う制度は、必ず人間の生活を奪う。だが、奪われた生活を笑い直すことこそ、反脆弱な人間の力である。