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なぜ「メンイケ」ではなく「イケメン」なのか

世の中には説明しがたい当たり前がある。たとえば、「イケメン」という言葉が成立しているのに、「メンイケ」という言葉は誰も使わないという事実だ。なぜなのか。イケメンがイケている男を指すなら、メンイケもまたイケている男を指してもいいはずだ。語順を逆にしただけなのに、片方は定着し、片方は滑稽な造語で終わる。これは単なる言葉遊びに見えるが、文化の偏見と制度の誤配がすべて詰まった問いでもある。

まず日本語における形容詞と名詞の関係を考えてみよう。「美人」「高層ビル」「大問題」──形容詞が先に来て名詞を修飾するのが自然である。「イケメン」もその流れに沿っている。だが「メンイケ」と言った瞬間、なぜかすべてが崩れる。意味は同じはずなのに、耳に届く響きは滑稽だ。人は「イケメン」と聞けばうなずくが、「メンイケ」と聞けば肩をすくめて笑う。これは言語の誤配であり、文化の笑いである。

しかしなぜ人間はそこまで順序にこだわるのか。逆に言えば、順序が偶然に決まったからこそ、そこに制度が生まれたのではないか。もし戦後のどこかの若者グループが「メンイケ」を流行語にしていたら、今日の日本語は違っていただろう。雑誌の表紙には「今年のメンイケ特集」と刷られ、テレビ番組では「メンイケランキング」が放送されていたはずだ。だが現実はそうならなかった。文化の分岐点はいつも些細な偶然に左右され、その偶然を人々は絶対化してしまう。

タレブの言うブラックスワンを思い出すべきだ。大きな歴史は、些細な偶然から生まれる。言葉の順序もまた同じだ。イケメンが定着し、メンイケが滑落したのは、ほんの小さな言葉の選択の差でしかなかった。だが、その差が制度を作り、人間の思考を拘束する。私たちは「イケメン」と言うことには疑問を抱かないが、「メンイケ」と言わないことには違和感を覚えない。つまり、制度に盲目的に従っているのである。

考えてみれば笑える話だ。日本語には「逆さ言葉」や「言葉遊び」の文化がある。「ヤバい」を「バイヤー」と言い換える。「最高」を「コーサイ」と逆にする。そうしたズレは一時的に流行し、人を笑わせる。だが、「メンイケ」はその程度の遊びにすらならなかった。なぜか。おそらく理由は単純だ。「メンイケ」という音の連なりが、耳にとって不快だからである。言葉は意味よりも響きに支配される。イケメンは語感が軽やかで、メンイケは語感が重たい。響きが文化を決める。文化は偶然の響きに従う。そこに合理性はない。

だが合理性がないからこそ、人はそれを絶対視する。これが制度の本質だ。「イケメン」は正しく、「メンイケ」は間違っている。そう言い切る人は多い。だがそれは「左を向けば右が見えない」と同じくらい当たり前で、同じくらい馬鹿げている。見えないものを笑い飛ばすのが人間の知恵だとすれば、言葉の順序を笑い飛ばすのもまた知恵である。

ブラックユーモア的に想像してみよう。もし「メンイケ」が流行していたら、合コンの会話はどうなっていただろうか。「昨日さ、超メンイケな人に会ったんだよね」と誰かが言えば、場は一瞬沈黙するだろう。語順の違和感がすべてを凍らせる。言葉の響きは人間関係すら操作する。おそらくそれが「メンイケ」が淘汰された理由だ。社会は笑いに耐えられない言葉を排除する。淘汰されなかった「イケメン」は笑いに耐えられた。だから今も残っている。

だがここでタレブ的に考えたい。笑いに耐えられる言葉だけが生き残るのだろうか。いや、むしろ笑いに耐えられなかった言葉こそ、どこかで誤配として蘇るのではないか。制度が排除したノイズは、別の場で偶然を引き起こす。たとえば「メンイケ」という語感は、これからインターネットのスラングとして復活するかもしれない。誰かがあえて使うことで、制度の外側で笑いが生まれる。排除されたものは壊れやすいが、壊れることで逆に強くなる。これが反脆弱性の論理だ。

結局、「なぜ『メンイケ』ではなく『イケメン』なのか」という問いは、言葉の偶然性と制度化の暴力を示している。意味は同じなのに、順序が違うだけで評価は天地の差になる。だが、この不合理こそが人間を人間たらしめている。すべてが合理的で最適化されていたら、言葉は死ぬ。ズレや誤配があるからこそ、言葉は生き延びる。

私はこう思う。イケメンという言葉が成立したのは、文化がその響きを笑いながら受け入れられたからだ。メンイケという言葉が成立しなかったのは、文化がその響きを笑えなかったからだ。だが、笑えなかったものを笑い直すことこそが人間の仕事である。だから私は「メンイケ」という語を茶化し続けたい。茶化すことで、制度にひびを入れる。ひびが入れば、偶然が忍び込む。偶然が忍び込めば、文化は強くなる。

なぜ「メンイケ」ではなく「イケメン」なのか。答えは簡単だ。偶然だからだ。偶然が制度を作り、人間はその制度に盲従する。だが盲従しながらも、人間はその制度を笑うことができる。笑うことができる限り、文化は壊れない。むしろ壊れて強くなる。そう考えれば、「メンイケ」という失敗作すら、未来の笑いの資源になるだろう。

イケメンの対義語として「ブサイク」があるように、いつか「メンイケ」の対義語も生まれるかもしれない。「ケイメン」とか「イケナイメン」とか、誰かが悪ふざけで使い始めるだろう。そのとき文化はまた少しだけズレ、誤配を取り戻す。ズレがあるから言葉は生き延びる。誤配があるから人間は笑える。笑えるからこそ、人間は反脆弱になる。

だから私はこう結論づけたい。「メンイケ」が笑われる限り、「イケメン」は生き続ける。そして「メンイケ」を笑うことができる社会は、まだ強い。なぜなら、笑いは誤配の証拠だからだ。