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なぜバズを追うと書くことが書けなくなるのか

シリーズの集大成

 

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バズは善だ。そう信じて疑わないと、いまのウェブでは息ができない。数字は酸素で、グラフは心電図で、ピックアップは救急車だ。Sir, we have a heartbeat──PVが跳ねた瞬間、作家は患者から医師に変わる。いや、もっと正確に言えば、医師のふりをした患者に変わる。自分の鼓動を自分で聴診し、波形に合わせて言葉を押し引きする。結果、文章は助かる。だが「書くこと」は死ぬ。なぜか。バズは因果を約束するが、因果は予定調和を呼び、予定調和は偶然を締め出す。偶然を失った文章は、たちまち呼吸をやめる。

ヒュームは「因果は習慣だ」と言った。私たちは「良い文章 → 反応 → バズ」の連鎖を何度も見たので、そこに必然を見た気になっている。だがそれは習慣化した期待でしかない。たまたまのタイミング、たまたまの誰かのリツイート、たまたまの雨雲。たまたまの積み木を、私たちは後から学術的に並べ替え、「狙える」と思い込む。習慣はやがて信仰に変わる。そして信仰は儀式を要求する。見出しに「なぜ」を置き、二行目でフックを刺し、四段落目で反転を仕込む。読者は頷き、数字は伸び、魂は萎む。儀式は成功し、書くことは失敗する。

タレブの言う反脆弱性は、揺らぎと誤配で強くなる性質のことだ。書くことも同じだ。偶然の失敗にさらし、外乱にあて、無駄な寄り道をさせることで、文体は厚みを増す。だがバズは無駄を嫌う。成功パターンは「効率」の形でコピーされ、「誤配」は「離脱」と名づけられて棄却される。誤配は作品の母であるのに、KPIは異物として排除する。こうして文章は、失敗から学ぶ機会を奪われ、温室の苗のように繊細になる。やがて読者のちょっとした逆風にも耐えられなくなる。バズは作家を有名にし、同時に脆くする。

ブランショは「外部」を語った。作品はいつも外のほうへ、言葉の外側へ、夜のほうへひっぱられている、と。書くことは、書けないもののほうへ手を伸ばす運動だ。だがバズは「内側」へ引き戻す。既存の語彙、既存の笑い、既存の怒り。うまくウケた言い回しは翌日にはフォーマットになり、外部への通路は「テンプレ」に塞がれる。外部が消えたとき、可能は縮む。可能が縮むと、書くことは「正解の復唱」になる。復唱は親切だが、文学ではない。夜に向かう足を止めるたび、文章は日中の眩しさで自分を誤魔化すのがうまくなる。

数字を観測すること自体が、対象を変える。量子の観測問題は、ウェブの文章にも適用される。書くことをPVで観測すると、書くことはPV向きの粒子にふるまいを変える。粒子は真空中で直進したがる。比喩は減速し、余白は摩擦になり、寄り道は損失になる。結果、文章は速く遠くへ飛ぶ。遠くへ飛ぶほど、着地が浅くなる。深く刺さるには、速度ではなく沈みが要る。だが沈んだ文章は拾い上げにくい。アルゴリズムは沈みを嫌う。こうして、沈む力を失った語りだけが表面に残る。

「書くこと」と「書けること」は別物だ。前者は行為、後者は能力。バズは能力を鍛える。フックを作る筋肉、視線を誘導する筋肉、怒りを安全圏で燃やす筋肉。反射神経は磨かれ、構成力は上がる。だが行為のほう──書くことそのもの──は弱る。書くことは、正解を手放すこと、立場を未定のまま残すこと、書き手自身を質問にさらすことだ。能力は即答を求めるが、行為は沈黙を含む。沈黙は数字に換算できない。だから能力だけが肥大し、行為は萎縮し、やがて能力は行為の内臓を食べ始める。それを私たちは「成長」と呼ぶ。ブラックユーモアにもほどがある。

バズは作者を「作者記号」に変える。あなたの名は、語りの窪みではなく、プラットフォーム上のアイコンになる。読者は文章を読むのではなく、記号を消費する。記号は裏切らない。いつもの逆説、いつもの挑発、いつもの優しいまとめ──安心の供給。記号が強くなるほど、作者は弱くなる。記号が期待を引き受け、作者はその期待の下請けになる。はじめて書いたときの自由は、はじめてバズった瞬間に質権としてプラットフォームに預けられる。回収できるが手数料が高い。たいていの作者は、手数料を惜しんで担保を増やす。担保は増え、自由は減る。

「じゃあ数字を見なければいい」と思うだろう。だがそれもまた罠だ。完全な断食は精神を澄ませるが、作業は貧血で倒れる。数字は毒だが、血でもある。ここで必要なのはヒューム式の懐疑だ。因果を信じない。「良い文章だから伸びた」という因果も、「伸びなかったから悪い」という因果も、どちらも疑う。習慣を疑い、偶然に席を譲る。タレブ式に言えば、「オプショナリティ」を増やす。大当たりを狙う一本の矢ではなく、はずれても痛くない短い矢を束にして放つ。時々、捨て矢の一本が虹を刺す。その虹を自分の実力だと思わないでいられるかどうかが、書くことを延命させる。

ならば、どうやって偶然を作品に招き入れるか。方法は粗野でいい。推敲中に一段落を捨てる。書き出しを三つ準備し、あみだくじで選ぶ。見出しの「なぜ」を一度外し、最後に戻すかどうかを迷う。読み手のコメントから一語を盗み、本文に移植する。散歩して、信号に引っかかったら比喩をひとつ増やす。些末なノイズが、案外作品の背骨を太らせる。均整は美しいが、均整で立つ家は揺れに弱い。

ブランショのもうひとつの示唆は、「終わらなさ」だ。作品は完成を拒む。公開ボタンは読者のためにあり、書き手のためにない。公開は終わりではなく、別の夜に続く端点だ。バズは「終わり」を偽装する。「これが答えだ」「こうすれば伸びる」「三つのコツ」。答えは便利だが、終わりを呼ぶ。答えが呼ぶ終わりに、読者は一瞬救われる。しかし書き手は、そこでわずかに死ぬ。生き延びるには、答えを言い切らず、問いを残し、読者に空白を渡す。空白は不親切ではない。信頼だ。信頼を受け取った読者は、翌日もう一度来る。

「読者のために書け」は正しい。だが「読者のためだけに書く」は間違いだ。作者は読者の奴隷ではなく、読者の共犯者だ。共犯には沈黙の合図がある。説明しすぎず、わざと手を抜き、意味の穴を用意する。穴は読者の所有欲を刺激する。自分で埋めた穴のある文章は、長く読まれる。SNSで拡散される文章と、机の引き出しにしまわれない文章は、時に別物だ。バズは前者を保証するが、後者は保証しない。後者を残せるかどうかが、作者の寿命を決める。

では、実務。数字と外部、因果と偶然、能力と行為を両立させるための、地味で面倒で、しかし効くやり方をいくつか書く。朝、分析画面を開く前に、100字だけ「数字に嫌われる文章」を書く。つまり、長い比喩、遅い呼吸、意図のない寄り道。昼、一本の短い「読者に優しい文章」を書く。つまり、明確な前提、具体、結論の明示。夜、両者を混ぜる。優しい文の真ん中に、寄り道を一本だけ刺す。刺さった寄り道が嫌われたら、そこがあなたの生きている場所だ。そこだけは、PVを払っても守る。守れないなら、あなたはバズの小作人になる。

もうひとつ。バズった直後に「反バズ」を一本入れる。わざと季節を外した話、ニュースを踏まない話、数字に換算できない幸福の話。これは避難訓練だ。火災報知器が鳴る前に非常口を確かめる。非常口には「失敗の在庫」を積む。未完成のメモ、断片の一文、意味のない比喩。これらは発火しないが、火を運ぶ。火は次の作品を探し当てる。成功の在庫より、失敗の在庫のほうが未来を救う。

そして最後に、倫理。誰のために書くのか。バズは「誰のため」を万能にする。みんなのため、社会のため、正義のため。だが文章は、特定の誰かに向かうとき、もっとも強い。顔の見えない群衆より、名前を知っている一人。あなたの文章が、とある夜、見知らぬ誰かの台所の蛍光灯の下で読まれている姿を、少しだけ想像する。想像できたら、語尾が一つやわらぐ。その柔らかさは、アルゴリズムが模倣できない。模倣できないものだけが、時間に勝つ。

だから私は、いまこれを書いている。ピックアップの窓がまだ開いている時間に、窓の外の闇を思いながら。数字はきっと明日の朝、運命を告げるだろう。伸びるかもしれないし、伸びないかもしれない。どちらでもいい、と言えたら、それは強がりではなく、作品の側の倫理だ。伸びなくても、この一文は夜に属する。夜に属するものは、遅れて効く。効いたとき、バズはすでに意味を失い、書くことだけが残る。

バズは酸素、偶然は血、小さな失敗は白血球。健康な文章は、どれが欠けてもめまいがする。めまいを恐れて楽な空気ばかり吸っていると、肺は怠ける。だから深く吸って、少しむせて、笑って、また書く。笑いは、書くことの酸素濃度を上げる。あなたが笑えるうちは、書くことは死なない。

もし今日のこれがバズったら、それは偶然の手柄だ。もし沈んだら、それは夜の手柄だ。どちらにせよ、書くことは、あなたの手柄だ。数字は拍手にすぎない。拍手が止んだあと、舞台に残るのは沈黙と一人分の呼吸で、それが「つづきを書け」と言う。その声は、どのピックアップ欄よりも信頼できる。だから、つづけよう。バズが止んでも、呼吸がつづく限り。呼吸がつづくなら、書くことは、まだ書ける。

 

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