はてなブログ大学文学部

読書日記と哲学がメインです(毎日更新)

なぜ働いていると郵便局に行けなくなるのか

 郵便局――それは、文明が残した最後の神殿である。かつて人々は手紙を書き、切手を貼り、赤いポストに投函した。そこから全国津々浦々へと手紙が届けられるというシステムは、近代国家の誇りであり、権力の象徴でもあった。だが現代において郵便局は、むしろ労働者を拒む砦となっている。働く者にとって、郵便局は最も遠い場所の一つだ。物理的には駅前にある。だが時間的には宇宙より遠い。
 郵便局の営業時間を知っているだろうか。窓口は基本的に平日の午前九時から午後五時まで。貯金や保険にいたっては、午後四時で閉まることもある。つまり、サラリーマンが会社に出勤してから帰宅するまでの間に、すでに郵便局は閉まっているのだ。しかも土日祝は堂々と休み。定時退社の鐘が鳴る頃、郵便局のシャッターはとっくに降りている。労働者は郵便局を外から眺めながら、「あの建物は幻だったのではないか」と自分の視覚を疑う。
 もちろん、一部の大型郵便局は夜間窓口や土日営業をやっている。だが、それは都市伝説に近い。実際にそこへ行くと、夜間窓口は「不在票の再配達受付のみ」「特殊な書留だけ」など制限だらけで、通常の手続きはできない。つまり「郵便局は開いている」という表示は、権力のブラックユーモアである。開いているように見えて、実際には閉ざされている。
 労働者が郵便局に行けないのは、時間の問題だけではない。そこには国家的な意思が潜んでいる。郵便局は本来、「国民すべてに平等にサービスを提供する」とされていた。だがその「平等」は、「平日昼間に動ける者だけが平等」という意味に変質した。つまり主婦、高齢者、フリーランス、無職――こうした人々には扉が開かれているが、サラリーマンやシフト制労働者には扉が閉ざされている。労働者は社会を支える柱でありながら、その社会の基盤的サービスから締め出される。ここに小さな権力の暴力がある。
 考えてみれば、郵便局はただの窓口業務ではない。そこでは「証明」が行われる。内容証明郵便、簡易書留、転居届、貯金通帳、保険契約――いずれも「あなたがここに存在すること」を確認する儀式だ。つまり郵便局は国家の代理人であり、私たちを「国民」として認定する祭壇である。その祭壇が、労働者にとって実質的にアクセス不可能であることは、社会のブラックな冗談にほかならない。
 たとえば住宅ローンを組もうとすると、金融機関から「印鑑証明と住民票を簡易書留で送ってください」と指示が来る。しかしそれを送るためには、まず区役所と郵便局に行かねばならない。どちらも平日昼間しか開いていない。つまり、労働者は「ローンを返すために働き続ける」前提でありながら、そのための手続きからは排除されるのだ。まるで「借金をする資格があるのは、時間に余裕のある者だけ」という悪質な冗談のように。
 土日祝休みの人々にとって、この矛盾はさらに深刻だ。彼らが休むタイミングと郵便局の休みは見事に重なる。つまり彼らは、永遠に郵便局に行けない。郵便局が休む日は、必ず彼らの休みでもある。まるで国家が「休日を与える代わりに、公共サービスからは切り離す」と囁いているかのようだ。これは権力による二重拘束である。「休め」と命じながら、「休む者には権利を与えない」と告げる。この茶番に気づいた瞬間、誰もが苦笑いするしかない。
 もちろん、郵便局側には言い分があるだろう。「人員が限られている」「平日昼間の需要が多い」「休日営業にはコストがかかる」。だがその言い分を額面通り受け取ると、こうなる。「社会を支える多数派=働く人々」より、「昼間に来られる少数派=非労働者」のほうを優先する。これは民主主義の逆立ちである。多数派である労働者が、制度から最も遠ざけられる。国家と企業が結託して「働け、だがサービスは受けるな」と命じているのだ。
 ここに、郵便局のもう一つの顔が現れる。それは「支配装置」としての顔である。郵便局は情報と金銭の流れを握ってきた。明治以来、郵便は監視の対象であり、戦時には検閲の手段となった。戦後には簡易保険と郵便貯金が国民の財布を吸い上げ、財政投融資という巨大システムを支えた。つまり郵便局は、国家権力の影であり続けた。その権力が今もなお、労働者の日常を縛っている。私たちが仕事に拘束されている間に、郵便局は平然とシャッターを下ろし、「来られないのはあなたのせいだ」と突き放す。
 だからこそ、郵便局はブラックユーモアの殿堂なのである。働いて税金を納め、社会を支えている者ほど、社会のサービスを受けられない。休みを取ろうにも、「そんなことで有給を使うのか」と上司に冷たい目を向けられる。結局、郵便局に行けないまま期限が過ぎ、重要書類は差し戻される。すると「自己責任」と呼ばれる。国家は決して「私たちがあなたを排除した」とは言わない。代わりに「あなたが行けなかったのが悪い」と突き放す。この構造こそが、権力のもっとも巧妙な暴力である。
 それでも我々は、今日も働く。郵便局に行けないと知りつつ、机に向かい、電車に揺られ、時間を捧げる。気づけば切手の貼られていない書類が机に積まれ、投函できないまま期限が迫る。最後に残るのは、社会にきちんと属していたという証明ではなく、「郵便局に行けなかった労働者」という墓碑銘である。