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なぜ神は人間をつくると人間に否定されるのか

神は人間をつくった。土から形を与え、息を吹き込み、生命を与えた。だがその瞬間から、人間は神を疑い、否定し、時に殺そうとすらした。神の存在をもっとも必要とするのは人間であるはずなのに、人間は神をもっとも拒絶する。ここにあるのは、世界の最古の逆説であり、人類史における最大のブラックユーモアである。

神はなぜ人間に否定されるのか。その第一の理由は「自由」という制度にある。神が人間に与えた最大の贈り物は自由だった。だが自由を与えられた人間は、必然的に神を疑う。自由とはすなわち、神の命令に従わない可能性のことだからだ。アダムとイヴが禁断の木の実を食べた瞬間、神は自分の設計の宿命を知ったはずだ。自由を与えたのだから、彼らが従わないこともまた自由の証明だ。だが従わない瞬間に、神は否定される。つまり、神は人間に自由を与えたとき、自らの否定をもデザインしてしまったのである。

次に、人間は「不在」を証拠にする。神が姿を見せないこと、声を発しないこと、直接的に介入しないこと。これらを理由に、人間は「神はいない」と言い出す。だがそれは、まさに神が「信じる自由」を与えたからにほかならない。タレブ風に言えば、神の存在は「非対称な賭け」だ。存在を信じれば報酬があるかもしれないし、信じなければ罰があるかもしれない。だがそのどちらも「確率ゼロではない」ところにゲームが成立する。人間はこのゲームを嫌う。ゼロか一かの確実さを求める。だから神の沈黙を「不在」として解釈する。神の設計はギャンブルだが、人間はリスクを嫌い、そのゲーム盤をひっくり返す。

また、人間は「悪」を根拠に神を否定する。戦争、飢饉、病気、災害。これらが存在する以上、全能の神などいない、と。だがこの論理は逆説的だ。悪が存在するからこそ、人間は「善なる神」を想定できる。完全な善しか存在しないなら、善は定義できない。悪の存在こそが、神の存在を前提としているのだ。にもかかわらず、人間は悪を武器に神を否定する。つまり神は、自らの存在証明のために悪を許したが、その悪を理由に否定される。これは設計上の最も壮大な誤配だ。

神が否定される理由のもう一つは、人間の傲慢さにある。科学が進歩するほど、人間は神を必要としなくなる。太陽は神の戦車ではなく、核融合で燃える恒星だと説明できる。疫病は悪霊ではなく、細菌やウイルスによるものだと突き止められる。神の領域は縮小し、「無知の穴埋め」としての神は不要になっていく。だがこの過程こそ、人間が「神のデザインの産物」であることを証明している。神が与えた理性を使って神を否定する。つまり人間は、神の贈り物を用いて神を殺している。親からもらった刃物で親を刺すような、壮大な自己破壊だ。

ここにブラックユーモアを重ねよう。もし神が存在するなら、彼はとっくにこの人類の背信を見て笑っているだろう。人間が「神はいない」と論文を書き、その論文が神の与えた理性と文字によって成立していることに気づかず、得意げになっている。これほど見事な自己矛盾はない。神はおそらく椅子に腰かけ、煙草でも吸いながら「やっぱり人間をつくったのは正解だった」とほくそ笑んでいるに違いない。

では、なぜ神は人間をつくったのか。タレブ風に言えば、それは「反脆弱性」のためだ。完璧な存在は脆い。揺らぎも失敗もないものは、一撃で崩れる。だから神は自分を否定する存在をデザインした。否定する人間がいることで、神という概念は揺さぶられ、破壊され、再構築される。その過程で神は脆さを超えて反脆弱になる。人間が神を否定するたびに、神は別の形で生まれ変わる。無神論、不可知論、科学主義──すべてが「神の否定」でありながら、同時に神というテーマを存続させている。人間の否定こそが、神を延命させているのだ。

人間は神を否定し続ける。だが否定できるということ自体が、神からの贈り物である。否定するたびに、人間は神を証明している。これは論理的なトリックではなく、人間存在そのものが抱え込んだ逆説である。

なぜ神は人間をつくると人間に否定されるのか。それは、否定されることでしか神は存在できないからだ。神は信仰によってではなく、疑いと否定によって生き延びる。人間の背信こそが、神の持続を保証している。

結局、人間が神を否定するとき、それは「神のデザイン通り」なのだ。後悔を繰り返す髪型と同じように、人間は神を否定し続け、その否定の中で神を生かし続ける。世界最古の逆説とは、神を否定することが神を証明する、ということだ。