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なぜ左を向くと右が見えないのか

左を向くと右が見えない。こんな当たり前のことを、わざわざ言葉にする意味があるのかと笑われるかもしれない。だが、人間の愚かさとは常にこの「当たり前」を見過ごすことにある。すべてを見ようとする。すべてを把握できると信じる。だが現実には、首を左に回した瞬間に右の景色は消えてしまう。これ以上なく単純な物理的制約だ。にもかかわらず、人は「全体像」を知っているつもりになる。自分が今、左を向いていることすら忘れて、右も当然見えていると錯覚してしまう。

視野は常に限定されている。右を見れば左が消え、左を見れば右が消える。人間の身体はこの不自由を前提として設計されている。にもかかわらず、社会は「視野を広げよ」「全体を把握せよ」と無茶を強いる。まるで両側を同時に見られるはずだとでも言わんばかりに。ビジネス書は「マクロを見ろ、ミクロも見ろ」と説教し、自己啓発は「全方位的な人間力を身につけよ」と囁く。だがそんなことは不可能だ。人間は前を向いているとき、後ろが見えない。上を見ているとき、下が見えない。そもそも視野は穴だらけで、その穴を前提にした世界に生きている。

だからこそ誤配が生まれる。見えない部分があるから、そこから偶然が忍び込み、予定調和を壊す。左を向いているときに右が見えないという当たり前が、思わぬ出会いや失敗や発見を生み出す。タレブなら言うだろう。「見えないことこそが人を強くする。すべてが見えていたら人間は壊れる」と。確かにそうだ。すべてを見通してしまえば、未来はただの予定表になってしまう。歯医者の予約と同じで、予定表に従えば従うほど不自由になる。人間はカレンダーに縛られ、自由を失い、偶然性を窒息させる。

左を向くと右が見えない。それを愚痴として語ればただの弱点になるが、笑い飛ばせば武器になる。笑いは盲点を受け入れる最良の方法だ。「右が見えない?まあ当然だろう」と茶化すことで、右を見落とした自分を責めずに済む。これこそ反脆弱性だ。見えない部分を恥じるのではなく、むしろ歓迎する。失敗しても死なないなら、それは訓練になる。右を見逃したことで左に集中できたのなら、それは一つの利得である。

しかし人間はどうしても全方位を見渡そうとしてしまう。情報社会はそれを加速させる。SNSは「世界のニュースを同時に知れ」と迫り、会社は「全体最適」を要求し、自己は「バランスの取れた人間」を演じようとする。その結果、すべてが中途半端になる。右も左も見えないフリをして、首だけを忙しく振り回す人間が出来上がる。これは滑稽だ。結局どちらも見えていないのに、見えているふりをする。マッチングアプリで誰にもマッチできないのに、画面を眺めて「選んでいるつもり」になっているのと同じである。

世界は盲点でできている。だが盲点があるからこそ偶然に出会える。右が見えないから、右から誰かがやってくる。左に集中しているとき、右側で笑い声が上がる。それを完全に把握できてしまえば、世界は予定通りにしか進まない。予定通りにしか進まない世界は壊れやすい。予期せぬことが起きないシステムは、ひとたび揺らぎが訪れた瞬間に崩壊する。金融市場がそうであるように、社会もそうだ。効率化、最適化、リスク管理──それらはすべて「両側を同時に見ようとする」愚行である。

左を向くと右が見えない。当たり前のことに絶望するか、茶化して笑うかで、人間の強さは変わる。笑える人間だけが盲点を味方にできる。笑えない人間は「右も左も見えない」と言って首を痛める。誤配を受け入れる者だけが生き延びる。誤配を拒絶する者は制度に縛られて死んでいく。

だから私はこう考える。左を向いたら右が見えない。それは不幸ではない。むしろ誤配の入口である。盲点があるから偶然が忍び込む。偶然があるから世界は壊れずに済む。誤配があるから人間は笑える。笑えるからこそ、人間は強くなる。

左を向いた瞬間に右が消えることを笑い飛ばせる人間だけが、右から現れるものを迎え入れられるのだ。結局のところ、世界とはそういう不完全な設計でできている。不完全だから壊れない。不自由だから強くなる。左を向いて右が見えないことを恥じる必要はない。むしろその不完全さを抱きしめよ。