読んだ本
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日記
昨日は、実存主義の祖と呼ばれることもあるキルケゴールの『現代の批判』を読んでいた。
キルケゴールは神学的な考察が多いので読みにくかったが、考えることが多すぎる日々(=現代)への批判は読み取れた。しかし表面的な理解にとどまっている。キルケゴールは難しい。
サルトル「実存は本質に先立つ」は有名である。
彼は「実存の哲学であって、実存主義ではない」と述べたが、のちに実存主義であることを公式に認めた。
ではキルケゴールとどう重なりあうのか。
本書では、サルトルがキルケゴール『おそれとおののき』という著書に触発され「アブラハムの不安」について考えた。そしてドストエフスキー「もし神がいないのであればすべては許されるだろう」という言葉と接続させサルトルは「人間は自由の刑に処されている」と発言したことが紹介されている。
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人間の「疎外」の原因について、カール・マルクスは資本主義における労働としたが、サルトルは「他者のまなざし」だと見た。この点にサルトルの独創性がみえた。
それを乗り越える手段としてマルクスは社会改革を構想したがサルトルは「意識の変革」を訴えた。
なぜ『存在と無』を書くことになったのか。ざっくりいうと現象学というものを再構成したいという情熱、意識について突き詰める必要性が突き動かしたといえる。
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「自由とはなにか」という問いは陳腐であると個人的には考えている。
そのようなテーマは既に考え尽くされただろう。
そうではなく、自由について考える場合、まずは考え尽くされた20世紀以降にどういう運動や歴史が生まれたのかを学び、同じ失敗をしない繰り返さないことに努めることがまず第一である。
古典はそのためにある。
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