まず、存在する根拠。大学の人文系研究者、宗教・スピリチュアル実践者、哲学や詩を愛する翻訳者・作家、ある種のカルチャー系コミュニティ(サロンや読書会)、小規模な書店の常連、静かな生活を選んだ個人──こうした人々は「知識」や「スキル」目的ではなく、人生の意味・死生観・倫理・孤独・愛といった実存的テーマに向き合うために読書をしています。SNSの表層的な発信に埋もれがちだが、オフラインや限られたコミュニティの中で深読が続いている現実があります。
一方で、なぜ希少になりやすいのか。現代日本は労働時間の長さ、成果主義と効率化、情報過多と注意の断片化、自己最適化を求める文化が強い。これらは「じっくり考える時間」と「不確実さを受け入れる余裕」を圧迫します。さらに出版市場の商業化や「役に立つ」コンテンツへの偏向も、実存的読書を相対的に目立たなくさせます。
では、実存的に読む人はどうやってそれを続けているのか。ポイントは「儀式性」と「コミュニティ」と「読書技法」です。朝の静かな時間や週末のリトリートを読書の儀式にする、対話型の読書会で感想や疑問を分かち合う、マージナルノートや翻訳注釈のように身体化された読み方(書き込み・書き写し・声に出す)をすることで、読書が単なる情報摂取でなく「生きる営み」になります。さらに、哲学・宗教テキストの定期的な再読や、生活実践(瞑想・散歩・手仕事)とセットで読む人も多いです。
テクノロジーは両刃です。SNSやアルゴリズムは浅読みを助長するが、同時にニッチな専門家や世界の思想書を手に入れる道も開く。オンライン読書会、翻訳の断片共有、遠隔講座などが、地理的分断を越えて実存的読書の場を作っています。
最後に希望的観測。社会全体が速さと効率を最優先にするほど、「深く考えること」の価値は逆に希少かつ必要になります。経済的成功や即効性が第一義でない人々、あるいは疲弊し問いを持て余した人々は、必ず実存的読書に立ち返る。だから「希少だが消滅はしない」。むしろ、社会のノイズが増すほど静かな読書の深さは相対的に光を放つはずです。
もし「本気で読む」ことを復権させたいなら、時間を守ること、読書の儀礼化、小さな共同体の形成、そして読書を生活の実践と結びつけることが有効です。読むことは逃避でも教養でもなく、生き方の選択肢であり、今も確かに選ぶ人たちがいる――それが僕の結論です。