
近年、「1日10分の読書」が注目を集めている。SNSを中心に広がったこのアプローチは、「時間がない人でも続けられる」「効率よく知識を得られる」という手軽さと即効性が評価されている。1冊の本を短時間で要約的に読み、そこから得た知識を仕事や日常に応用する──こうした実践は、忙しい現代人のライフスタイルにフィットし、多くの支持を集めてきた。
一方で、**「言葉の円環」という読書観は、効率を追い求めない立場に立つ。ここでは読書は成果を得るための道具ではなく、「言葉を反響させ、意味を往還させる営み」**として捉えられる。1冊を繰り返し読む、ゆっくり時間をかけて内面に沈殿させる、偶発的な出会いを大切にする──こうした姿勢は、短期的な実利や生産性には結びつきにくいものの、思索の深みを支える。
両者を比較すると、その根底にある哲学の違いが見えてくる。10分読書は「知識=資本」という視点に立つ。短時間で本質を掴み、アウトプットや行動に結びつけることを最優先にする。対して言葉の円環は「知識=対話」という視点をとり、答えよりも問いの深化を重んじる。
ただし、どちらが「正しい」という単純な二項対立ではない。10分読書は習慣化のハードルを下げるという点で優れており、「まず読む」という行為を生活に組み込む入り口として大きな価値がある。逆に言葉の円環の読書は、成果主義や効率主義を超えた豊かさを提供するが、時間的コストが高く、現代的な忙しさのなかでは実践が難しい。
むしろ重要なのは、両者を対立的に捉えるのではなく、補完的に位置づけることではないだろうか。たとえば、朝10分の短い読書で新しい知識や視点をインプットし、その一節をきっかけに週末にはゆっくりと思索的に読み返す、といった往復運動が考えられる。効率性と深度は、時間軸や目的を変えれば共存可能なのだ。
結局、読書の本質は「自分自身のための営み」である。効率的な知識の取得も、非効率な意味の探究も、どちらも個人の生き方や欲望に応じて選び取られるべきものだろう。10分読書が示す軽やかさと、言葉の円環が宿す重み。その両方を意識することが、これからの読書体験をより豊かにする鍵となる。