つづきを読み終えた。
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メモ
なし
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感想
ゆっくり読み終えたあと再度何回も読み直した。
今日はもうこれ以上読み直しても理解は進まないな、というところまで来たので感想を書いていきたい。
完全に理解できている自信は、恥ずかしながらないので、もし訂正が必要であれば後日訂正したい。
イーグルトンによれば、構造主義は作品の意図を理解しようとしない。ソシュールの考え方は、言語に意味が与えられる「構造」そのものを研究の対象としたとされる。
一方、批評家で記号論者のバフチン (1895-1975) はその態度で言語を解明しようとするソシュールを批判。
バフチンは「社会的」コンテクストを重要視した。
ソシュールの考え方は、「人間=主体」を均一的に、同じような存在として扱う見方であるがゆえに、「言語の意味は発話行為から生成される(=社会的なもの)」という態度を退けてしまう。
構造主義というものは簡単に言いくるめられるほど単純な思想ではないので今回の記事ではここまでが限界である。
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次は「ポスト構造主義」の章に入る。(『文学とは何か?(下)』)
イーグルトンによれば、構造主義においてシニフィアンとシニフィエはそれぞれ対応する関係にあるが、ポスト構造主義はその見方をやめ、「切り離す」ことで展開されたとされる。
かくして、「文学とは何か?」という問いは広範囲の批評活動を取り扱い、果てしない旅のように、先がみえないものとなっていた。
つづく